グルジェフは覚醒していくためには第一のショックである「自己想起」(主客の同時認識)以外に、「不快感を表現しない」という第二のショックがないと先に進まないと語ってゐる(『奇跡を求めて』で)。
「不快感を表現しない」といふのは、前回書いた「ゆるしによって怒りが消える」といふことに通じる。
「ゆるし」が第二のショックなのだ。
「自己想起」以外に「ゆるし」を行わないと覚醒が定着しないのだ。
覚醒の書である『奇跡のコース』で「ゆるし」を説くのも、さういふのに関連してゐるのかな。
グルジェフは覚醒していくためには第一のショックである「自己想起」(主客の同時認識)以外に、「不快感を表現しない」という第二のショックがないと先に進まないと語ってゐる(『奇跡を求めて』で)。
「不快感を表現しない」といふのは、前回書いた「ゆるしによって怒りが消える」といふことに通じる。
「ゆるし」が第二のショックなのだ。
「自己想起」以外に「ゆるし」を行わないと覚醒が定着しないのだ。
覚醒の書である『奇跡のコース』で「ゆるし」を説くのも、さういふのに関連してゐるのかな。
今まで、ゆるすといふのは傲慢なことだと思ってゐた。
ゆるすほうが上の立場で、ゆるしてやってゐるイメージがあるからだ。
また、「ゆるす-ゆるされる」というのは二元の世界のことであり、超越世界(非二元)では意味をなさないと思ってゐた。
ただ、
相手が気に食わない言動をしたとき、カッとならずに、その言動をゆるしたら、冷静に思ひやりをもって接せることができる。怒りを収めることができる。
ゆるしと怒りは双対なのだ。
怒りは他人ばかりではなく自分にも向かう。間違った、愚かな判断をして物事が駄目になるとき、自分(の判断力)に怒りを向ける。ここでも、自分の判断力をゆるしてしまえば、怒りが消える。
ゆるしは怒りを消す効能があるのだ。
人は何がしかに怒ってゐる。常に不満をもってゐる。
そのときに有効なのが「ゆるし」だ。
グレン・グールドが奏でた頃の曲想は、その時代の時代精神を反映してゐた。
それらの演奏は今も愛でられ親しまれ、普遍性をもってゐる。
現代の演奏家は、今の時代精神を反映してゐる。
それはグレン・グールドとは違ふが、現代の様相を表現してゐる。
精神世界、スピリチュアルも時代精神を反映する。
時代精神を踏まえながら、どう発振していくかが出版社の役割だ。
サンマーク出版さんあたりは、うまく発振してゐる。
うちはうまく発振できてゐない(苦)。
時代精神の中で発振したものは、その時代を象徴したものとして後世に残り、
その時代の文化として位置づけられる。
今、時代を切り開かないといけない時代と思ってゐるが、切り開く何かがあるのかだうか。
天才は必要だ。
前回、書いたことは酔ってゐて書いてしまって、ほとんど憶えてゐない(苦笑)。
いろいろ大変過ぎて、いろいろ案を出して乗り切らないといけない。
人の言ふことは参考にするけれど聞く必要はない。だうするかはこちらの判断。
基本としては、救ひは、幸福は「超越者を感じる」ことだけ。
ヒルティの「神のそば近くにあること」、スーフィーの「照明体験」。
悟りは、自分には無理。
「超越者を感じる」ことに向かうだけ。
だうやって死ぬか。
明治以降の諸悪の根源は山縣有朋と思ってゐる。
彼が築いた体制が軍国主義に至り、シナ事変(今は日中戦争といふらしい)を起こし、太平洋戦争まで至った。
くそ野郎だ。(超くそ)
(個人の感想。苦)
あげくに無能だ。
それと同じく、くそなのが、太平洋戦争時、特攻隊の制度を決めた輩だ。くそのくそのくそだ。
人の命をなんと思ってゐるのか。
アメリカが、日本の国土に爆弾を落としまくったのもくそだ。
当時の中国人は残虐しまくってゐるし(超苦)。
今もか(苦)。
いろいろな人のエゴの喧騒で、精神的に疲れまくってゐる。
エゴから離れた空(くう)の世界に安らぎたい。
空の世界に安らぐ(逃避?)にしても、疲れがそんなに取れない。
疲れを取るパワーがない。
ヒルティの言ふ「神のそば近くにゐるときの圧倒的な幸福感」が疲れを取るパワーがあるやうに思はれる。
神(超越者)からパワーをいただくやうな感じ。
いろいろなエゴの喧騒や雑事、対応マシーン状態での精神的な滅入りを軽減する。
「神のそば近く」に感じるには、自己想起(自他の同時認識)による超越者の認識(覚知)が必要だ。
神=空ではあるのだが。
願望実現系のスピリチュアルはうさんくさい、ということを書こうとしてゐるわけではない。
もちろん、願望実現系のスピリチュアルはうさんくさい。
エゴの満足のために幻想に浸ってゐるにすぎない。
そんなことはだうでもよい。
(読者はひっかからないにやうに)
まう、エゴのああだ、かうだはうんざり。
自分は駄目人間。
まう、仕事をやめてしまいたいくらいだ。
うまく引き継げたら、やめたい。
うんざり。
対応が大変過ぎる。
精神が磨り減り過ぎて、許容量を超えてしまってゐる。
まう、すれすれ。
休みたい。
エゴとマインドの世界とはおさらばよ。
なぜ日本人は(世界の人々は)、合成保存料や着色料やさまざまな添加物を食品を入れてきたのか。
狂気としか思へない。
なぜ人々は、森林を伐採しつくし、CO2を増やし続けるのか。狂気としか思へない。
なぜ公害を撒き散らすのか。狂気としか思へない。
一部の人の狂気が地球を破滅へと向かはせる。
人々は、その一部の狂気の人たちをくい止められなかった。
今もさうだ。
森林伐採は続いてゐる。
狂気の人が戦争を続けてゐる。
いつのまに「体育の日」から「スポーツの日」になったのかな?
「スポーツの日」も「海の日」も「山の日」もくだらない。
文化もへったくれもない。
政治家は下の下。
日本も終はり。