禅では頓悟を重要視する。1回の悟り・一瞥体験だけといふイメージがある。
もともとは1回だけの悟りを重視しなかった。大燈国師のように20年も橋の下で悟後の修行をした。白隠禅師は最初の一瞥体験(小悟?大悟?)のあと、何度も小悟・大悟を繰り返した。
グルジェフは、自己想起(一瞥体験)を長年修練しないと確立しないと言ふ。
一瞥体験の後、長年(20年~30年?)修練しないと本当の覚醒とは言へないといふのが真実のところだと思ふ。
中には短時間の人もゐるやうだが。ネドじゅんさんとか。
禅では頓悟を重要視する。1回の悟り・一瞥体験だけといふイメージがある。
もともとは1回だけの悟りを重視しなかった。大燈国師のように20年も橋の下で悟後の修行をした。白隠禅師は最初の一瞥体験(小悟?大悟?)のあと、何度も小悟・大悟を繰り返した。
グルジェフは、自己想起(一瞥体験)を長年修練しないと確立しないと言ふ。
一瞥体験の後、長年(20年~30年?)修練しないと本当の覚醒とは言へないといふのが真実のところだと思ふ。
中には短時間の人もゐるやうだが。ネドじゅんさんとか。
存在としては、観照者と観照される世界しかないのかもしれません。
観照される世界で、ああだかうだやってゐるだけ。
観照者から見たら、何の意味もない。善悪もない。ウクライナ問題もただの現象。
溝口あゆかさんとお話をしていて、イギリスではスピリチュアルと非二元(覚醒・悟り)は明確に分かれてゐると言はれてゐた。
それに反して日本では、非二元の人もスピリチュアルを交えて話してゐる人が多いと。
確かにさうだ。
スピリチュアルは霊的な世界のいろいろな階層について言ふが、それらは現象界のもので相対的な世界のものだ。非二元は相対世界を超えたところを指してゐるので、スピリチュアルとは異なる。
日本でも、その辺のことが明確になればいいのにと思ふ。
スピリチュアルの人は非二元(覚醒・悟り)のことは理解できてゐない。残念ながら。
久々の投稿(笑)。
何かいろいろあると投稿しなくなる。
それはそれとして、自分はスピリチュアルでないとよく言はれる。
ネガティブ発言連発だったり、愛だの光だのポジティブだのを言はなかったり、なのかもしれません。
また、日頃の行動も全然スピリチュアルでないのも、そのせいなのかもしれません。
考へが軽いのも、さうなのかもしれません。
スピリチュアルってなんなのかな?
今までずるく経営してきたなと思ふ。
いろいろな本を出すのにずるくしてきたなと。
抜け目なく版権を取ったり、人を気持ちよくさせて出版にこぎつけたり。
目的のためにいろいろ方便を使ってきた。
日本の人々の意識の目覚め(覚醒)のために、ずるくやってきた。
こそこそやってきた。
ねばりづよくやってきた。
不器用で口下手で臆病で表には出られない人間なので影でこそこそするしかない。
頓悟で1回で悟るといふのは、お釈迦さんかラマナ・マハルシのやうな特殊な人(前世からの縁の人?)以外は、1回で悟って、はい終了といふことはないやうに思ふ。
一瞥体験を数千回から数万回しないといけないのでは。
グルジェフのいふ「自己想起」(一瞥体験)を積み重ねないと「客観意識」(悟りの意識)までには至らない。
グルジェフは、さうなるにはかなりの年月を必要とすると言ってゐる。
数十年かけて結晶化が始まり、その後、さらに結晶化を進展させていかなくてはいけない。
ある意味、一生のテーマだ。
一生をかけて覚醒を結晶化させていく。
うまくいかないことにイライラするといふのも、エゴなんだらうな。
悟ってゐない証拠。
なんでうまくいかないのか、だうすればうまくいくのか、
それを考へて、イライラする。
アドレナイン、放出状態。
生物学的にも致命的。
会社経営は、うまくいかないことの連続。
改善の努力の連続だけれど、改善策も見えず、改善もなかなかできなくて、イライラだけがつのる。
それがストレスになる。あぁ。
それによって悪循環も起こる。
覚醒できない。
真我(超越者)を感じるしかない。
ストレス・フリーになれない(苦)。
久しぶりの書き込み。
悟りの目安として、覚者にはストレスがないといふことが上げられる。
自分はストレスだらけ。故に悟ってゐない。(三段論法)
覚者は、ストレスを感じる自己がない。
自分は、ストレスで毎日酒びたり。アルコール漬けの日々。
ストレスを感じる自己(自我)がある。
いろいろな圧がある。
本が売れるのかどうか、支払いできるのかどうか、翻訳がイマイチ、ゲラを読むのが遅いという自分の能力の未熟さ、いろいろな企画への対応、苦情への対応、社員への対応・・・、
時間も遅れてばかり。
ストレスなく対応できればいいが、対応している自己なくして対応できるのか。
対応マシーンになっても疲れてしまふ。
ストレスを感じる自己(自我)がなければ、ストレスは感じないのか。
常に真我(超越者)は在るが、自己意識が真我に直結し続けるには修練(グルジェフ風にいへばワーク)が必要だ。
修練の結果、結晶化、磁石化がおき、安定的な覚醒状態になる。
ある人たちは一回の覚醒で真我に留まることもできるのだらうが、通常は結晶化するまで修練(ワーク)が必要だと思ふ。
鎌倉時代末期の大燈国師(宗峰妙超)は、京都の橋の下で結晶化するまで20年間修練したといふ。
覚醒とはだういふものか未知であり、それを調べてゐるうちは結晶化しない。マインドに留まり続ける。
10年前くらいまでは情報不足だった。
今では、いろいろな情報が出てゐて、調べることや確認作業は割りと短い時間で済み、修練へと向かへる環境になったと思ふ。
覚醒にとっては(覚醒するには)恵まれた時代だ。
覚醒して、主客を越えた認識(超越者・真我の認識)をしたとき、この世界はある種の幻性になるが、幻性からのある種の飛躍が芸術の役割なのか。