「いまここ」から「いまここが天国である」へ

覚醒系(ノンデュアリティ系)では、「いまここ」が大切といふ。
マインドは、未来か過去のどこかを思ってゐて「いまここ」にゐないから、覚醒すると「いまここ」だけになる。
ただ、「いまここ」だけだと平面だ。ただの現実世界だけだ。
「いまここが天国である」と認識するとき(覚醒するとき)、縦軸として「天国」があらはになる。
「いまここ」という平面と「天国」といふ垂直が交はる。

「いまここ」が逆境といふ状況だらうと「天国」が顕現してゐる。
地獄で天国。

「煩悩即菩提」といふのも、煩悩と菩提が同じものだといふ見方もできるけれど、
横軸と縦軸といふ見方もできる。
煩悩の中にあっても、菩提が顕現してゐる。

ペースを落とす

今度出す本『何が、起きても、それを、愛する』(マット・カーン著、仮題)に、ペースを落とすことが書かれてゐる。ハートで生きるためにはペースを落とすことが必要だと。ゆったりすることが必要だと。
アラン・コーエンさんも同じようなことを言ってゐる。

今まで、野望を持ち、欲のままにガムシャラに、渇かつとして生きてきた。ああしたい、かうしたいと闘争してきた。そしてストレスを抱へ、酒に溺れ、暴食をし、他のことにも溺れ、頭も朦朧として、いかれた状態だった。

出したいと思ってゐた本(分野)もだいたい出し終わり(まだあるといへばあるが)希望(夢)を失ひ、毎日の多量の事務的な対応に追われ、気力も体力も落ち、精神と神経が擦り減って、不適応状態になってゐた(る)。

今は、ペースを落とす必要がある。
多量の事務的な対応もあまりしたくないし、しないようにしよう。
本も出し過ぎないやうにしよう。

まう、これといった欲もないし。
ゆったりと生きていかうと思ふ。

キリストのビジョン

この世界は幻想であり、諸行無常ではあるが、キリストのビジョンで見ると永遠の相で見える。神の世界が見える。神が常に在る、神とともに在る、神の中に在る。
そこに救ひがあるのだらう。

天国は死んでから行くものではなく、生きてゐながら天国にゐることができる。キリストのビジョンで生きるならば。

使徒たちは、さうやって生きてゐたのだ。彼らには光が灯ってゐた。キリストの光が。

気力と肝臓

今日お会いしたお医者さんによると、気力と肝臓は関係してゐるといふ。
酒の飲みすぎで、肝臓が弱って、それで気力も出なくなったのかな。

肝臓を大事にしないといけない・・・

と言ひつつ、酒を飲みながら書いてゐる(苦)。

希望

『奇跡のコース』では、この世界は神が創ってゐない不完全なものといふ。
いつまでも不完全であるが故に、この世界には希望がない。

ラマナ・マハルシも「この世界のことは、この世界に任せない」と言った。

この世界はだうしやうもない。この世界には希望がない。

では、この世界でないところに希望はあるのだらうか?
神の世界に希望はあるのだらうか?
神の世界の希望って何?

神の世界にあれば何の希望もないのではないか。
希望をもつ必要がない。

パウロは、
「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。」
と言った。

パウロの言った希望とは?

今、自分にはほとんど希望がない。
あっても希望なき希望。

希望と言ふとき、何か心が開くイメージがある。
なぜ開くのか?
望みが叶う可能性があるから?

死が待ってゐるこの世界で望みが実現しても、やがては消えてゆく。どこかで望みが死によって断ち切られる。

何の結論も出ない。

心理学は苦手

心理学はうだうだしてゐて苦手である。自己愛の世界。
また心理学は平面の世界を扱ってゐる。縦軸がない。神や信仰や悲劇性がない。
ライトスピも同じやうなもの。ライトなだけあって深みがない。

名人や巨匠や職人は、何年も修行し、自ら何かを会得し、磨き、そぎ落とし、そして人を感動させる何かを体得する。神が宿る? 神聖な何かが顕現する?
ライトスピにはさういふものがない。
手短に何かが得られる、といふタイトルばかり。
それで得られるものとは何なのか。ぴーひゃら。

今の自分はライトスピでもディープスピでもない。
何かほとんど諦めてしまった。何も達成しようとも思はない。達成しようとしないから名人にも巨匠にも達人にもなれない。かといって手軽に願望実現なんてとも思はない。何の意味もない。
もう年で死ぬだけといふ感じだ。死ぬ人間に願望なんて意味がない。
やれることはやったし、あとは惰性なのか。
体力も気力も落ちてゐる。
あとは後進に任せるだけ。
遊子、ひとりたたずむばかりなり。

対象化しえない神

スピ系は何でも対象化してしまふ。
高次の存在は対象として見ることはできるが、神(といふ表現は適切ではないかもしれない。包越者)は
対象化しえない。偶像は作れない。
主観と対象を包越する何か。

包越者に、意識を向けること。

縦(垂直)といふもこれを指すのか。
対象化できるものは平面だ。水平の世界。

ハムレットは、包越者に意識を向けながら生きた(劇の中で)。
「生か死か、それが問題だ」といふとき、そこには包越者への意識がある。
包越者への問ひかけがある。

イエスは、その典型だ、常に包越者に意識が向いてゐる。
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」

垂直との関わり

次の元号が「令和」になった。
いろいろな意見があるようだ。命令の令で統制や軍国主義や戦争のイメージがあるとか、文字のエネルギー的にもあまりよくないとか。和を令せらても、という感じはあるのかな。まあ、どんな時代になっていくのか・・・
同じ音を使ふのであれば「霊和」がよかったかな。霊(スピリット)が調和していく感じで。

それはともかくとして、
Kan.さんも言はれてゐるやうに、スピリチュアルの道においては平面(平行)の関係だけでなく、垂直のものがだうしても必要だ。垂直のないスピリチュアルは、ただの遊びといふか何の意味もない。本においても平面的な本ではなく、垂直のものがある本を出していきたい。

垂直とは霊感だったり、聖なるものを感じこと。相手と面していながらそこに聖なるものが介する。
人への愛が同時に神の臨在を表してゐるやうに。