くたくた

今日、残りの3月出版予定の本2冊を印刷所に入稿した。
『藍の書』も含め、ずっと詰めっぱなしで、まうくたくただ。

(本が売れてくれればいいけれど(笑)。『藍の書』は好調でうれしい)

気持ち的にはちょっとのんびりしたいな。

4月以降の刊行予定の本も山ほどあるので、だうなのか・・・

今日、エネルギーケアのワークを受けたのだが、僕のエネルギー状況は、
歪みと漏れでかなりひどい状態だった。まだ完全に修復できてゐない。
過去の感情と他者からの感情の影響を受けてゐて、歪んでゐる。

こんなに歪んでゐれば、他者に対してもきちんと対応できないのだなと思ふ。

肉体と精神の疲労とエネルギーの歪みと・・・

ゆるし2

世界に自己同一化してゐると、何かあるとついカッとなってしまふ。
世界から、人から、影響を受ける。

世界と自己同一化してゐないなら、世界がどうならうが、人がだう言はうがどうでもよくなる。
ラマナ・マハルシは「世界のことは世界に任せなさい」と言はれたが、
それが「ゆるし」だと思う(『奇跡のコース』のゆるし)。

ゆるしは、世界と自己同一化しなくなったときの結果だと思ふ。
認識の変換(覚醒)が起ったときに、ゆるしが起る。

まあ、なんでもよくなる(笑)。

世界の中で、あれがほしい、かうしたい、と生きてゐると自己同一化にはまってしまふ。
出版時の文章のチェックも、こっちの表現がいいと思って、ああだかうだとやってゐると
自己同一化のどツボにはまっていまふ。
あぁ。
自己同一化をやめて、なんでもいいと思ふと、本の質としていいのができないのかな(苦)。
本の質にこだわるのもエゴか。

過去生の一貫性

今度3月に出す予定のゲイリー・レナードの『イエスとブッダがお互いに知り合いだったときの生涯』の二人の過去生も一貫していて、二元から非二元へと向かっていく転生をしていた。

先日見てもらった先生からの僕の過去生も一貫したものだった。

何かシンクロを感じた。

ゲイリー・レナードの本では、人生や過去生は夢だと言ってはゐるが。
神のみが現実で、それ以外はすべて夢と。

出身の星と過去生

今日、はじめての先生のセッションを受けた。

出身の星と過去生を見ていただいたが(笑)、またしても今まで言われたことと違ってゐた。
なぜ、どの先生も違ふことを言ふのだらう。

前回見てもらった外国の先生は、僕の出身の星はアルクトゥールスと言ってゐたけれど、今日の先生からはアルクトゥールスではないと言はれた(笑)。
ただ、シリウス経由できたらしい。銀河系のどこかの星とのこと。
シリウスのエネルギーを入れてもらったら、僕の魂のサイズが大きくなった(笑)ので、さうらしい。

今回見ていただいた先生から言はれた過去生が今までで一番、今回の生に対して合理的な過去生だった。
1代前から5代前までさかのぼって見ていただいたがすべてが連綿としていて今につながってゐた。
他の人からはこのやうなことは言はれたことがない。

今回も、また初めて言はれた過去生だった(笑)。
みんな言ふことが違ふので、どの先生が言ってゐることが正しいか不明だが、今回のは説得力があった。
何か、心の奥で反応してゐるものがあった。
今までさういふ経験はあまりしたことがなかった。
少し心が開放されるのかな(笑)。

『前世を超えて』のやうに、過去生とは同時にたくさんあるものなのか・・・

ゆるし?

酔ってゐてまともなことは書けないが、酔はないと書けないこともある(苦)。

『奇跡のコース』では、「ゆるし」は、この世を幻想だと見てとることだといふ。
相手がひどいことをしても、それは幻想であると見ることが「ゆるし」だと。
この世界自体が夢幻(ゆめまぼしろし)で、どんなひどいことが起っても本当ではない、と。
そのやうに見ることが「ゆるし」だと。

相手はどんな罪も犯してゐない、と。

すべては幻想であり、ゆるされてゐる、と。

非二元(覚醒)から見たら、この世は変転とする様相だ。

「ゆるし」は、感情センターに働きかける。
感情センターのわだかまりを解消する。
「ゆるし」は、高次感情センターのはたらきかもしれない。
高次感情センターは、無条件の愛の世界(領域)だと思ふが、そこに「ゆるし」といふ機能もあるのだと思ふ。

まう、なんでもかんでも「ゆるし」てしまふ。
それを認めるのでなく、まぼろし(本当は存在しない)として。

実在しないものは存在しない。実在するものは脅かされない。
そこに「神の安らぎ」がある。

実在しないものは「ゆるす」しかない。現象すべては実在しない。

第四の体

グルジェフは、自己想起した主体(覚醒した主体)にして<不死なる私>として「第四の体」のことを傳へてゐる。
肉体(動作センター)、感情体(感情センター)、思考体(思考センター)の三つの体を統括するものとして「第四の体」の存在を提起した。
通常の人間は、「第四の体」は持ってゐない。
単なる三つの体をもつ機械にすぎない。反応物体だ。この世界だけの対応機械。
第四の体(覚的主体)をもったときに、この世界の対応だけのあり方を超え、それに影響されない<不死の私>を持つことができる。

第四の体とは、非二元(ノンデュアリティ)に目覚めた意識のことである。
第四の体を作るためには、結晶化をしないと形作れない。
目覚めの意識(覚醒意識)が定着しないと形作れない。
結晶化には何年もかかる(何十年も)。

何年もかかるといふ点では、『奇跡のコース』のワークブックも365項目あり、
かなりの日数を要する。
『奇跡のコース』も第四の体を作るためのワークなのかもしれない。
生老病死の無常なる非実在の幻想世界から不死なる実在の世界(神)の意識に至るための。

世界は幻想? 神の安らぎ?

『奇跡のコース』は世界は幻想だといふ。実在しないもの。神のみが実在し、そこに「神の安らぎ」があるといふ。

世界は幻想なのか? 現象ではあるが。幻も現象ではある。幻でないものは現象化するのか?
現象は変転とする。不変ではない。
不変のものは、現象化してゐない。

「神の安らぎ」って、神が安らぐのか? 自分が安らぐのか?
神を認識することによって、自己が安らぐ?
ヤスパースも「すべてが滅んでも神が在れば十分である」といった。
さういふ認識を持つと安らぎが訪れる?

先日、スピリチュアル・カウンセラーに、僕は不安を抱えてゐると言はれた(笑)。
いつも不安だらけだ。
「神の安らぎ」もない。
「神よ、ありがとうございます」と言ひ続ける不安感情の世界。
そんな世界では、安らぎはない。

この世(現象)を超えた超越者に対する祈りや明け渡しが必要なのかもしれない。
「かもしれない」と言ってゐるうちは本物ではない。