創業20周年

4月25日で、ナチュラルスピリットは創業20周年を迎えました。
読者があってこそ、ここまで続けてこれました。
それに関係してくださった人たち、会社、書店様があってこそ続けられました。
感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。
これから21年目に入り、気持ちも新たに進んでいきたいと思います。

基本の「意識の目覚め」(覚醒)を中心にして、しっかりした内容のもの、最先端をゆくものを紹介していきたいと思っています。
そして、人々の意識が変わり、より調和した社会になっていってほしいと思っています。

これからもよろしくお願いします。

いつもネガティブ発言連発ですが、今日は謙虚に氣を引き締めての発信です(笑)。

いつかこの物質の世界とも別れる

更新がちょっと間が空いてしまった。

今月はかなりあわただしい。
5月発行の本をやうやく3冊印刷所の入稿できた。
何の本かは、そのうちわかる(笑)。楽しみに。

今日の書き込みは、「いつかこの物質の世界とも別れる」
死んだあとの存在・存続については一般に「ある」とされてゐるがまだ確証されてゐない。
あるなしに関わらず、今触れてゐる物質世界ともいつか別れないといけないときが、「必ず」来る。

ドアの取っ手の物質性も、この世に生きてゐるから触れられる。感じられる。動かせる。
死んでしまへば触れられないし、感じられないし、動かせない。

この世のすべてのものが、さうだ。

さういふ面で、この世の物質は貴重だ。

あぁ。

心の静けさ

心の静けさ、安らぎは、どこに属するのだらうか?
覚醒は意識に属するが、心の静けさは、感情に属するやうに思ふ。
でも喜怒哀楽の感情ではなく、グルジェフの言ふやうな高次感情センターに属してゐるやうに思ふ。

古代ギリシャ哲学では、ストア派もエピクロス派も幸福は「心の静けさ」(アパテイア、アタラクシア)にあるとした。

「満たされない思ひ」は、感情・ハートに属するけれど、「心の静けさ」に至ると「満たされない思ひ」は高次に変換され、高次感情センター・ハートが活性化され機能するやうになるやうに思ふ。

それが覚醒の効能か。「覚醒」→「心の静けさ・やすらぎ」

わんさか出てきてゐる

さっき思ってゐたタイトルと違ふが、まあいいか(笑)。

今(20年前くらい前から?)、欧米ではわんさか覚醒した人が出てきてゐる。
さういふ本もたくさん出てゐる。

最近では、日本でも少し?(たくさん?)、さういふ人が出始めてゐる。
日本での書籍は、弊社と他の出版社さんで若干出してゐるが、欧米ほど出てゐない。
情報量がまだ少ない。

もうちょっと、溢れるほど出して、一般的にもなじみのあるものにしたい。
これでもか、くらい(笑)。
売れたらの話だけれど。
読者は、どれだけついてきてくれるかな。

今、世の中が、覚醒する方向に向かってゐる。
そのうち、全員、覚醒する(悟る)のかな。たぶん。

神の安らぎ

『奇跡のコース 第一巻』が、しばらく品切れ中だったが、ようやく増刷できた。
amazonにももうじき反映されると思ふ。また全国の大型書店にも並ぶと思ふ。

『奇跡のコース』は、序文でこのコースは次ぎのやうに端的に要約できると言ふ。

実在するものは、存在を脅かされることはない。
非実在なるものは、存在しない。
ここに、神の安らぎがある。

なぜ、そこに神の安らぎがあるのか。
前の2行は、存在するものは存在し、存在しないものは存在しない、と言ってゐるだけのやうだ。
だうして、そこに神の安らぎがあるのか。

この世は、幻想の世界であり実在しない。非実在なるもの。
この世を超えたもの(神)のみが、実在する。神は絶対で滅びない。不滅。
神は滅びないから安らぐのかもしれないが、人間は、俺は、滅びの存在かもしれず、安らぎはない。
神だけが安らげばいい。
そもそも「あなたも私もゐない」(笑)。
神だけがゐて、神(だけ)が安らいでゐる。
それが『奇跡のコース』の教えか。

『奇跡のコース』は、純粋な非二元(ノンデュアリティ)の教えだと、ゲイリー・レナードを通してアセンデッド・マスターは説いてゐた。

イエスは、安らいでゐるのか。

覚醒と安らぎは異なる。
覚醒は、意識の領域であり、安らぎは、心(ハート)の領域だ。

『奇跡のコース』では、「神のマインド」を説くがハートはだうなのか。

俺の心は安らいでゐない。

心(ハート)から愛が噴出して、オープンハートだぜ、とはまだ行ってゐない。

超越次元と死

エックハルト・トールは、主観と客観を超えた「超越次元」のことを『マインドとの同一化から目覚め、プレゼンスに生きる』で語ってゐる。

超越次元は、生死を超えた次元だ。死を超えてゐる。

超越次元を意識すると、死をも意識するやうになる。

死が一寸先に見える。

死と共存する生が始まる。

そして、どこかで終はる。