『虹の身体の成就者たち』のヨンジン・テンジン・ナムタク・リンポチェが遷化

『虹の身体の成就者たち』の著者、ヨンジン・テンジン・ナムタク・リンポチェが6月12日に遷化されたと翻訳者でお弟子のゾクチェンの修行者で箱寺孝彦さんからご連絡をいただいた。

箱寺さんは急遽ネパールに向かった。
ヨンジン・リンポチェはトゥクダム状態とのことだった。
トゥクダムとは、心臓の鼓動、呼吸、体液循環が停止した後でも、死後硬直することなく、生気を保ち続ける現象のことをいふさうです。

箱寺さんのホームページの該当記事

少し御身体が縮んでいるように見えるそうで、虹の身体が発生している可能性があるとのこと。

ゾクチェンの成就者たちは、他界するときに、身体をエネルギー体(虹の身体)に変化させていく。完全に肉体が消えていく者もいれば、身体が小さくなっていき小さい身体を残す者もゐる。
不思議な現象といへば、不思議な現象だ。

ゾクチェンは、チベットのボン教や仏教に伝はる非二元(ノンデュアリティ)の教え・実践だ。

非二元の教え・実践は洋の東西、古今を問はずあるが、現代の非二元の実践者も他界するとき、身体が虹の身体になっていくのだらうか。

ヨンジン・テンジン・ナムタク・リンポチェ

1926年東チベットのカム地方で誕生。自分自身のラマ(チベット語で師範の意味) と4年間、人里離れた洞窟で暮らしながら教えを学んだあと、中央チベットのツァン地方にあるボン教の総本山メンリ僧院でゲシェー(仏教博士)の学位を授与され、そのままメンリ僧院の学頭ラマになった。
彼は永遠なるボン教のラマであり、またその最も重要な系譜の伝承者でもある。
亡命中のインドのドランジにボン教の総本山メンリ僧院を、ネパールのカトマンズにティテン・ノルブッツェ僧院を再建し、フランスのブルーに教えの伝授と修行ができる国際的なボン教センターであるシェンテン・ダルギェリンを設立した。1989年以来ヨーロッパとアメリカ合衆国でゾクチェンの教えを説き続けた。2025年6月12日遷化。

初めは善意(後も)

トランプ、アメリカ大統領は、善意でロシアとウクライナの戦争を終わらせようとしてゐる。
また、アメリカの経済を守りたくて、関税を上げて対応してゐる。
結果が思わしくなくても、善意で初めて、その後も善意でしようとしてゐる。

弊社も、いい本を出そうと善意で本を出してゐるが、全然売れない。会社は赤字続きだ。

善意とは別にやり方があるのだらう。

逆に悪意があってもやり方がよければうまくいくのか・・・

とりあえず、やり方をうまくするしかない。

修行はエゴ

何かを目標に行うことは、エゴの行ひである。
修行も同じ。エゴの行為。自分の願望のことしか考へてゐない。
それを自覚してエゴとして修行をするのはいいのかもしれないが。

大方の行為はエゴではあるが。
仕事もエゴ。

以心伝心? テレパシー?

対面してゐる人と話してゐるときに、言おうとしたことを相手がまさにそのとき発言することがよくある。
意識が無意識か集合意識でつながってゐて、さういふ現象が起こるのかなと。

今日は、あるイベントの件でスタッフに連絡しないといけないなと思ってゐたら、そのイベントの主催者から電話が掛かってきた。
その主催者の想いを察知したのか、集合意識でつながったのか。
距離が離れてゐても、意識はつながってゐるやうだ。

よく電話がなると誰からだとわかる人がゐたり、誰かのことを思ってゐると電話が掛かってくるといふ話は聞いてゐたが、自分にも起こるとは思はなかった。
この年になって、何か変化したのか。

電話はともかく、誰かや何かのことを思ふとき、集合意識またはテレパシーでつながってゐるのだらうか。
大部分は妄想だと思ふけれど(笑)。

神を内に持つこと

「神を内に持つこと」「神を内に祭ること」は、山形の天狗さん(最高位の天狗さん)や『よひとやむみな』の穂乃子さんがこれからの時代の生き方として伝へてゐることだが(普遍的な生き方ではあるが)、
神=愛とするなら、
「愛を内に持つこと」、愛で生きることが、これからの生き方といふことになる。
愛で生きることは、エゴのない生き方であり、その時、意識は覚醒する。一瞥体験をする。
愛で生きてゐれば、一瞥ではなく、常に覚醒意識で生きることになる。

創立28周年

4月25日で創立28周年を迎へた。

よく続いたものだと思ふ。

いろいろなことがあった。あり過ぎた。

いろいろあったけれど、志だけが支えだったかもしれない。

続いたのは、いろいろな方に支えられたからと思ふ。

いつまで続くかわからないけれど、人々の意識の目覚めやそれを通した社会改革に役立つことをしていければ。

この現象界はだうしやうもないけれど(苦)。

一人でも目覚める人が出れば。
(一人以上は出たかな。笑)
多くの人が目覚めれば。

息抜き

先日お会いしたノンデュアリティの人は、息抜きは必要ないと言ってゐた。
息を抜く「人」がいないからか。

自分は息抜きばかりしてゐる。逃げてゐる(笑)。
何から逃げてゐるのか。
仕事のわずらはしさから。
仕事は、心をすり減らす。
悟れば、すり減らす「心」もなくなるのだらうけれど。

また、氣も散ってしまふ。仕事が長続きしない。
取り組まないといけないことが多過ぎで、それぞれに氣が向かい、それぞれに神経を使ふ。

対象ではない

一瞥なり覚醒体験をすると、そこに現れた世界にとらはれてしまふ。
眠り(想い)の世界で見ていた風景と違ふ世界が現れるので、その世界にとらはれる。

そこに出現したものは、あらはな(輝く新鮮な)世界ではなく、そのやうに見える背後(内側?)の何ものかだ。
それは対象ではない。
では、主観か?
それを感得してゐるものがあるのであれば主観ではあるが。
主観でもないやうな・・・

トニー・パーソンズは、「何でもないもの」が「あらゆるもの」として現れるといふ。

また、話は変はるが、今日お会ひしたノンデュアリティの人は、多くの人はノンデュアリティはスピリチュアルの一種だと勘違いしてゐと言はれてゐた。
ノンデュアリティとスピリチュアルは全然違ふ。
スピリチュアルは知識の世界。
ノンデュアリティは知識を超えた世界。
相容れない。

最近は、二つの話題を1回の投稿でしてゐる。
デュアルだ(苦笑)。

ノンデュアリティの極北と極南

現代のノンデュアリティの極北と極南は、トニー・パーソンズとバーナデット・ロバーツかもしれない。

どちらも自己が抜け落ちてゐる。

現代の禅の六祖慧能ともいへるトニー・パーソンズ。

バーナデット・ロバーツも行けるところまで行った。

過去にはルーミーや他のスーフィー、禅僧やゾクチェン僧、キリスト教神秘主義の人々等がゐた。

 

覚醒と悟りは違ふ。

覚醒はただの一瞥体験や感覚的なもの。
悟りは、自己の本性を悟るもの。悩みや苦悩が消えるもの。
覚醒や一瞥体験では、悩みや苦悩は消えない。
自己の本性を悟ってゐない。

全然、自分は悟れてゐない。
「自分」がまだあり過ぎる。

 

今回も、前半と後半では違ふ話になった(苦)。