ハートを満たすこと

といふテーマで書かうと思ったのだが、今日も酔ひすぎて書けさうにない。
このブログは、酔いどれ日記ブログだ(苦笑)。

酔ってゐるときしか書かない(笑)。

会社の社長が「酔いどれ日記」を会社のブログに書いていいのかだうか不明だが、自分が経営者なので制止する人がゐない(苦)。

それはさておき、今号のスタピも買ってほしい(笑)。(経営者的に)

瞑想、マインドフルネス、ノンデュアリティについての特集も組んでゐる。
怖れから愛についても組んでゐる。
そして来月刊行予定の『ディスクロージャー』のミニ特集も組んでゐる。

『ディスクロージャー』は画期的な本だ。
アメリカのクローズになってゐたUFO情報他を公にした本だ。

これを日本の国会議員にみんな(ほとんど)献本したいくらいだ。
これによって、日本の政治は変はるか。(変はってほしい)

(アメリカの政府が変はらなかったやうに、日本の政府も変はらないか……。それが影の政府が望んでゐることか)

アルコール

最近(まう何年も)、毎日アルコール漬けだ。
毎日、いろいろな人と飲むし、家でも飲む。
昼間は、脳はアルコール状態だ。
夕方にアルコールが消えて、また夜に飲む。悪循環だ。

会社経営は大変だ。まうストレスだらけだ。
心の救ひもない(苦)。

自律神経が安らぐCDを掛けっ放しだが(大笑)。

心のエネルギー源とは何だらうか。

グルジェフは、超努力のときに、潜在的にある巨大エネルギータンクのつながると言った。

まう、みんなスピの経営者になればよいのだ!

アルコール以外のエネルギー源としては、覚醒したときの(非二元のときの)何とも言へない超越的な何かから感得するものかもしれない。
それが動力源となって、本を出したり、会社経営をしてゐるのかもしれない。

どうせ、使われっぱなしの人生だ(大笑)。

替われるのものなら替わりたい(苦)。

いやいやスピリチュアル。
自分のやうな俗人がスピリチュアルをしてもしょうがない。

日本のお金(財運)の神様

日本のお金(財運)の神様といへば、宇賀神がゐる。
八臂弁財天とも呼ばれる宇賀弁財天の頭の上にある爺さんの顔をもち蛇の体をもつ神様だ。
竹生島の弁財天も、厳島の弁財天も、江ノ島の弁財天も、天河の弁財天も、銭洗弁財天も、みな宇賀弁財天だ。
宇賀神は、龍王とも呼ばれる。

蛇の体を持つ神様は、大国主が祭った三輪山の神様の大物主がゐる。
日本の古来の神様は、蛇の体を持つ神様だったのかもしれない。

『小桜姫物語』に出てくる日本の神様も、本来は龍体と書かれてゐた。

エネルギー体が流れてゐる姿が蛇に見えたり、龍に見えたりするのかもしれない。

宇賀神は、財を司る神様。
日本オリジナルの神様?

もうひと柱の財運の神様、大黒様は、もとはインドのシヴァ神(マハーカーラ)といはれる。
憤怒の相の神様が、笑顔の大黒様に変わってしまった。
これはだういふことか・・・
大国主と習合したともいはれるが。
あるひは、人の想ひが形をなしたエレメンタルか。

会社経営はお金のやりくりだが、財運の神様の宇賀神や大黒様とうまくつきあっていくしかないか。
いい本やいいものを提供し続けるために。
まだまだ信仰心がない(笑)。

陽神と覚的主体

仙道の陽神は、禅の覚的主体(無位の眞人)と同じなのか。
仙道では、丹田に氣を集めて丹を作り、それを小周天で練丹し、丹を活性化する(練精化氣)。
さらに丹を意識(仙道では意識を神といふ)と合体させ、陽神を作る(練氣化神)。
陽まで至らないものは陰神といふ。陰神のまま体外離脱することを「陰神を抜く」と言って、
本物の体外離脱としない。
陽神を体外離脱させながら、陽神を自由な状態にする(練神環虚)。
そして、陽神は道(タオ)と合一する(環虚合道)。

覚醒においても似たやうなプロセスをたどるのかな。
大燈国師(宗峰妙超)は、悟った後、20年間、京都の橋の下で乞食の生活をして覚的主体を温養した。
これは陽神(覚的主体)を20年間育成し、確立させ、練神環虚や環虚合道したのに近いかもしれない。

悟後の修行はあるとかないとか言はれるが、陽神(覚的主体)を確立させるためにはあるのかもしれない。
または、一瞥(小悟)後、大悟(覚的主体の確立)までの間を温養といふのかもしれない。
大悟によって、環虚合道がなされるのかもしれない。

霊能者

霊能者といはれる人の98%は偽者(思ひ込み)といはれる。
会ってゐる霊能者のほとんどは、偽者なのだ(笑)。
さういふ心つもりで相談した方がいい。

今までいろいろな霊能者に会ってきたが、過去生でも守護霊でも同じことを言はれたことがない。
みんなニセモノなのか、一人以外ニセモノなのか(苦笑)。

それほど本物の霊能者はいないのだと思ふ。
(でも本物はゐると思ふ)

霊能者も検証してみないといけない。

自称霊能者が多すぎるので、ある程度といふかニセモノの霊能者は淘汰されないといけないと思ふ。
そのためのシステム?か何かが必要なのかもしれない。または、だまされないための何か(サニワ?)が必要なのかもしれない。

ニセモノの霊能者から言はれたことを信じて生きてゐるスピの人は多いのではないかと思ふ。

武蔵野

東京はセミの種類が多い。また野鳥の種類も多い。
田舎の山形県の酒田にはそんなにセミの種類も野鳥の種類もいないので、東京に上京したときは驚いた。
東京は人口の増加とともに武蔵野の自然を破壊していった。
かろうじてほんの一部だけ武蔵野の面影が残っているところもあるが・・・

自然が破壊されてもセミや野鳥の種類が多いといふのは、それだけの包容力を武蔵野は持っているのかもしれない。

縄文の遺跡も川沿いに結構あるし、生活もしやすかったのかもしれない。

今の東京の町だらけのと昔の武蔵野とのが二重映しに見える。

反神武、反天津神

どちらかといへば反神武、反天津神だ。
神武も天津神もどちらも征服者。

大国主が日本を治めていたのを、渡来?(朝鮮、ユダヤ?)の民(天津神)が国を譲れと武で脅して譲らせた。
それで降り立ったのが高千穂という日本の中心部の外れのところといふのも面白いが。
全国(中心は奈良、三輪山)を治めていた大国主は、出雲に幽閉された。

神武も九州の日向(宮崎県)の地から東征して大和(奈良県)に熊野側から攻め入って、征服してしまった。
その過程で、地元の部族を皆殺しにしていった。
何の必要性があって九州から奈良地方に攻め込んできたのか。
弥生時代から古墳時代にかけての動乱の時代だったのだらうけれど。
それで銅鐸文化が滅んだ。
三本足のカラス(ヤタガラス)など高句麗と共通項があり、天皇家はそっち方面なのか。
最初に九州に入り、その後に奈良を征服していったのか。
言語的に高句麗、扶余系の言葉と共通するところもあるようなので。

古事記、日本書紀は外部からの征服の歴史だ。

日本の神々はだうなってゐるのか。
とっくに和解して、古今の神々(国津神と天津神)が協力してお守りしてくださってゐるのか。
または、さうでないか(苦)。

縄文はだうなったのか。

弥生とは何だったのか。

非二元のワークショップ

最近の傾向としてワークショップの集客は二極化してゐる。
人気のある先生はすぐ満員になり、そうでない先生はなかなか集まらない(苦)。

ここ数年、非二元の先生たち(海外含む)にワークショップの開催の打診をしてきたが、なかなか実現する数が少ない。
非二元の先生たちは変わった人が多い(のかな)(笑)。

いろいろな人がゐる。中にはファーストクラスやビジネスクラスを要求してくる先生もゐる。健康面を考えてらしいが。

細かい人もゐるし、あまり氣にしない人もゐる。

もっと非二元のワークショップ(お話会)をして、もっと非二元を盛り上げていきたい。
もっと非二元に目覚める人が増えてほしい。

非二元難民を減らしたい(笑)。

エネルギー不足?

最近、流行歌も出ない。
この話題は前から言ってゐるけれど(苦笑)、今、文化を創るエネルギーが不足してゐるやうに思ふ。
人々の集合意識を動かすエネルギーが不足してゐる。
創造の源につながり、そこからエネルギーを汲み出すエネルギーが枯渇してゐる。

低文化時代。

人々はゲームにはまり、ネットにはまり、エネルギーがそこに吸い取られてゐるのかもしれない。

エネルギー不足だと、人の真実が薄っぺらいものになってしまふ。
偽善になってしまふ(苦)。

今の時代における人の真実を表現できてゐない。

といふことは、もう前の時代とは変はってしまったのだ。意識が。
そしてそのことに気づかず、前の時代の文化、生き方を形として踏襲してゐるだけになってしまってゐるのだ。
だうしていいかわからずに。
さうしていれば安心だといはんばかりに。

今は破綻の中で、源につながるしかないのだ。

アーティストよ、創造の源につながれ!

脱力と悟りの関係

筋肉が緊張したまま(力が入ったまま)なのは、何かの想ひ(思考)に浸ってゐるからだ。想ひが筋肉の緊張をもたらす。
ストレスも想ひからくる。

想ひに浸ることをやめると(想ひに対する自己同一化をやめると)、覚醒(一瞥)が起こる。
完全に想ひに浸ることをやめ、自我が抜け落ちると悟りが現れる。

悟ってゐる人は、想ひに浸っていないから筋肉の緊張がない。脱力状態だ。
悟ってゐるかゐないかを見分ける方法の一つは、顔や身体に緊張感があるかだうかだ。
顔がだらっとしてゐる人は白痴か悟った人(覚者)かだ(笑)。
緊張のある顔の人は、悟ってゐない。

黒住宗忠は、白痴のやうに見られるやうになって喜んだといふ。
それだけ本物になったといふことなのだらう。

良寛もさうだ。

一休さんではないが、一休み、一休み。