キリストと対峙するといふこと

バーナデット・ロバーツの『自己とは何か?』の中で、人間が、無我、無自己と段階ごとに進むごとに、キリストが「聖なるもの」との橋渡しの役割を変えてゆく、と書かれてゐる。

覚醒の諸段階で、キリストが関わってくる。

今までは自分にとっては、歴史上のイエスが聖性を発揮したぐらいのイメージだったが、この本を読むと違った様相が見えてくる。かなり本質的な関わり。神と人との橋渡し。
覚醒の過程では、キリストと共に歩く形なのだらうな。

やうやくゲラのチェックが終り(かなり難解だった)、ちょっとグラグラ状態。自己の根底が揺さぶられる感覚。世界の構造が呆然と見えてくる。

究極の本の一つ。
行くところまで行った本。

4 thoughts on “キリストと対峙するといふこと”

  1. 今井博樹様、出版された本を何冊か大切にしています。辻麻里子さん、足立育朗さん。知ること在ることにつながれる詠む本、美しい本を受け取り感謝しています。本は読物ではなく、詠物だと思います。売る言葉ではなく、永久につながる言葉。それをカタチにしているモノ、古代から残されているシンボル、サインと同じ。キリストは星、イエスは太陽
    天と光と人を現すシンボル十、最近知ったことと、このブログがシンクロして、思わずコメントしました。

    1. ありがとうございます。

      本を「詠む」、いいですね!

      キリストは、人によっていろいろな様相を示しますね。
      少なくとも、この世を超えた何かを示していますね。

      だう向き合っていくか・・・
      どこを向いてもキリストがゐるやうな。

      1. どこを向いてもキリストはいます。星であり太陽であるから。私は無宗教ですが、キリスト教も仏教も、神社も、知らない宗教もミナモトは同じモノとそう観じるようになりました。時代が気づかせている?ような気がします。

        1. 確かにそうですね!

          僕は星も太陽もどこをも超えたところにキリストを見たいと思ってゐます。
          そこを通して、どこにもキリストは見えるのかなと。

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