心が満たされてゐるか、満たされてゐないか

人は、心が満たされてゐる人と満たされてゐない人に二分できる。

自分は、満たされてゐない。
それで暴飲暴食をする。さうしたからといって心が満たされるわけでもないのに。

悟った人は、心が満たされてゐる。
覚醒しても心が満たされてゐない人は悟ってゐない。

では、だうすれば心が満たされるのか?

幼少期の教育か。

 

けふの曲
バックハウスのベートーベンのピアノ・ソナタ全曲

2 thoughts on “心が満たされてゐるか、満たされてゐないか”

  1. >では、だうすれば心が満たされるのか?

    ・・・?
    うーんと。
    それはジャッジしないことではないかと。

    悟ったとか悟っていないとか覚醒したとかしないとか…ジャッジするから、満たされているとか満たされていないとかのジャッジもしたくなると思うのですが。

    前にも書きましたが、人間は極性化したがる。分けたがる。
    そもそもここはそういう世界。

    どのみち、人間はたとえ一時満たされても、すぐに満たされない状態になる。
    もっと(満たされたい)、と欲求が起こるから。人間はそういうふうに出来ているのだから。

    そう考えれば、満たされているかどうかはどうでもよくなりませんか?
    どちらなのか?とジャッジせず、ただ淡々と創造的に過ごすことに意識を向けるのがいいと思います。

    1. ありがとうございます。

      ジャッジしないという見方もあると思いますが、
      そして、たぶんSchedarさんは基本満たされてゐるのだと思はれますが、
      自分の場合、気持ちを見た場合、満たされてゐない、と。
      今まで満たされたことはなかった、と。ジャッジといふより観察として。

      ラマナ・マハルシは、常に満たされてゐて、満たされないことはなかったのではないかと想像します。

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