覚醒のためには外より内

超越者=内在神=真我であり、同一のものを指すが、
超越者といふと、外部にあるやうなイメージになってしまふ。
外のその向こう側ではあるのだが。
それよりも世界と自己の内在として見たはうが、それを保持しやすいやうに感じる。
真我としてみたほうがより保持しやすい。
「真我を感じる」といふマントラ(アファーメーション)がいいやうだ。

人によって覚醒を呼び込むものは違ふと思ふし、
パウロの「キリストを着る」でもいい。

覚醒してゐる人は、さういふ呼び込むものは必要ないと思ふが。

真我と自分は違ふもの。

スポーツと小説(芸術)の違ひ

スポーツは、対象に自己同一化して眠りに落とす覚醒とは真逆のもの。
グルジェフは無用な熱狂を伴ふと言った。

小説も物語の世界に没入させて、スポーツと同じやうに眠りに導くのか。
小説も芸術であるならば、眠りとは反対に覚醒に導くもののやうにも思ふのだが、
スポーツと小説の違ひは何なのだらう。

小説(劇)はカタルシスをもたらす、とアリストテレスは言ふ。

小説は内部運動で、内部の何かを動かし、それを昇華へと向かはせるのか。
内部の何かとは感情か。情念か。
小説のあの読後感とは何なのか。呆然とするものとは。

ゆるしが覚醒への第二のショック?

グルジェフは覚醒していくためには第一のショックである「自己想起」(主客の同時認識)以外に、「不快感を表現しない」という第二のショックがないと先に進まないと語ってゐる(『奇跡を求めて』で)。

「不快感を表現しない」といふのは、前回書いた「ゆるしによって怒りが消える」といふことに通じる。
「ゆるし」が第二のショックなのだ。

「自己想起」以外に「ゆるし」を行わないと覚醒が定着しないのだ。

覚醒の書である『奇跡のコース』で「ゆるし」を説くのも、さういふのに関連してゐるのかな。

ゆるすといふこと

今まで、ゆるすといふのは傲慢なことだと思ってゐた。
ゆるすほうが上の立場で、ゆるしてやってゐるイメージがあるからだ。

また、「ゆるす-ゆるされる」というのは二元の世界のことであり、超越世界(非二元)では意味をなさないと思ってゐた。

ただ、
相手が気に食わない言動をしたとき、カッとならずに、その言動をゆるしたら、冷静に思ひやりをもって接せることができる。怒りを収めることができる。
ゆるしと怒りは双対なのだ。
怒りは他人ばかりではなく自分にも向かう。間違った、愚かな判断をして物事が駄目になるとき、自分(の判断力)に怒りを向ける。ここでも、自分の判断力をゆるしてしまえば、怒りが消える。

ゆるしは怒りを消す効能があるのだ。

人は何がしかに怒ってゐる。常に不満をもってゐる。
そのときに有効なのが「ゆるし」だ。

時代精神

グレン・グールドが奏でた頃の曲想は、その時代の時代精神を反映してゐた。
それらの演奏は今も愛でられ親しまれ、普遍性をもってゐる。
現代の演奏家は、今の時代精神を反映してゐる。
それはグレン・グールドとは違ふが、現代の様相を表現してゐる。

精神世界、スピリチュアルも時代精神を反映する。

時代精神を踏まえながら、どう発振していくかが出版社の役割だ。

サンマーク出版さんあたりは、うまく発振してゐる。

うちはうまく発振できてゐない(苦)。

時代精神の中で発振したものは、その時代を象徴したものとして後世に残り、
その時代の文化として位置づけられる。

今、時代を切り開かないといけない時代と思ってゐるが、切り開く何かがあるのかだうか。

天才は必要だ。

かろうじて生きてゐる(笑)

前回、書いたことは酔ってゐて書いてしまって、ほとんど憶えてゐない(苦笑)。

いろいろ大変過ぎて、いろいろ案を出して乗り切らないといけない。

人の言ふことは参考にするけれど聞く必要はない。だうするかはこちらの判断。

基本としては、救ひは、幸福は「超越者を感じる」ことだけ。
ヒルティの「神のそば近くにあること」、スーフィーの「照明体験」。
悟りは、自分には無理。
「超越者を感じる」ことに向かうだけ。

明治以降の諸悪の元は

明治以降の諸悪の根源は山縣有朋と思ってゐる。
彼が築いた体制が軍国主義に至り、シナ事変(今は日中戦争といふらしい)を起こし、太平洋戦争まで至った。
くそ野郎だ。(超くそ)
(個人の感想。苦)
あげくに無能だ。

それと同じく、くそなのが、太平洋戦争時、特攻隊の制度を決めた輩だ。くそのくそのくそだ。
人の命をなんと思ってゐるのか。

アメリカが、日本の国土に爆弾を落としまくったのもくそだ。

当時の中国人は残虐しまくってゐるし(超苦)。
今もか(苦)。

エゴの喧騒から逃れるには

いろいろな人のエゴの喧騒で、精神的に疲れまくってゐる。
エゴから離れた空(くう)の世界に安らぎたい。

空の世界に安らぐ(逃避?)にしても、疲れがそんなに取れない。
疲れを取るパワーがない。

ヒルティの言ふ「神のそば近くにゐるときの圧倒的な幸福感」が疲れを取るパワーがあるやうに思はれる。
神(超越者)からパワーをいただくやうな感じ。
いろいろなエゴの喧騒や雑事、対応マシーン状態での精神的な滅入りを軽減する。

「神のそば近く」に感じるには、自己想起(自他の同時認識)による超越者の認識(覚知)が必要だ。

神=空ではあるのだが。

願望実現系のスピリチュアルはうさんくさい。

願望実現系のスピリチュアルはうさんくさい、ということを書こうとしてゐるわけではない。

もちろん、願望実現系のスピリチュアルはうさんくさい。

エゴの満足のために幻想に浸ってゐるにすぎない。

そんなことはだうでもよい。
(読者はひっかからないにやうに)

まう、エゴのああだ、かうだはうんざり。

自分は駄目人間。

まう、仕事をやめてしまいたいくらいだ。
うまく引き継げたら、やめたい。

うんざり。

対応が大変過ぎる。
精神が磨り減り過ぎて、許容量を超えてしまってゐる。

まう、すれすれ。

休みたい。

エゴとマインドの世界とはおさらばよ。