ぷあぷあ

昨日、松久正先生の『ワクワクからぷあぷあへ』をライトワーカーブランドから発売した。
おかげさまで好評&好調のやうだ。

この本の中で、「ワクワク」とは地球的なもので、対象を必要とする(91ページあたり)とあり、これは二元性の生き方の一つなのかなと思った。
それに対して「ぷあぷあ」とは、宇宙的なもので、対象を必要とせず、今そこに過去未来も影響なく楽に在ることを指すやうだ。これは、ノンデュアリティ(非二元)の在り方・生き方に通じるものがある。

松久正先生は、「ぷあぷあ」を今年の流行語大賞のノミネートにしたいと熱い思ひでゐる。
情熱的に「ぷあぷあ」を世に広めたいと思ってゐる。
地球人進化クリエーター。

耳をひらく?

故・佐々木基之先生によって提唱された「分離唱」。佐々木基之先生は「耳をひらく」ことを伝へられてゐて、その継承者が鍋島久美子先生だ。「響奏の吟遊詩人」という団体名でハーモニーを教へ、みんなで歌い、「耳をひらくこと」、「聞くこと」を徹底的に教えてゐる。「後ろ側の意識空間」とも表現してゐる。
ホームページ、および、スタピ15号に載った記事

耳をひらくことは、悟りにも通じるのだらうか?
パンッといふ音の響きに、耳をひらく。
足音や車の音、風の音、電車の音、人の声。
聞き耳を立てるのとは違ふのだらうが(笑)、
音が音そのものとしてあるのを聞く。

視覚においては、覚醒するとものがリアルに見えるが、
聴覚においても、覚醒すると音はリアルに聴こえるのだらうか?

聴覚型で悟った人は、鐘の音で悟る。
ゴーンといふ響きで、悟る。

8月に刊行予定の『カシミールの非二元ヨーガ』は
サブタイトルが、「聴くという技法」。
カシミールの伝統的なヨガを学んだジャン・クラインに
弟子入りした、ビリー・ドイルの本。
訳は、古閑博丈さんの名訳だ。

「聴くこと」が今、きてゐるのかもしれない(笑)。

動きそのもの

今日発売のダリル・ベイリーの『ファンタジーの終焉』は、面白い記述をしてゐる。

な~んて、酔いながら書いてゐるが(笑)。

覚醒・悟りは、「動きそのもの」を感得することだと言ってゐる。

パンだったり、指1本だったり、禅で示してゐるのは、対象のそれ(二元のそれ)ではなく、そのもの自身の「動きそのもの」を指してゐる。

覚醒・悟りの書ではよく、対象と対象を認識する主体とそれ自身が一体となってゐることを認識することを言ふ。

主客それ以前のそれ自身の認識・・・

動きそれ自身が展開する。
音それ自身が響く。

ノンデュアリティ難民

引き寄せ難民と言はれてから久しい(のかな)。
今は、ノンデュアリティ難民があふれてゐる。

ノンデュアリティは、理解できない人には理解できない。
一線がある。

ノンデュアリティが広まりつつある。と同時に、難民も多く出てゐる。
まわりの人たちは、一応に理解できないと言ふ。
そのもどかしさに怒りもおぼえてゐるやうだ。

引き寄せの法則とその難民たちは、想念の世界で悶々としてゐるだけだが、
ノンデュアリティ難民は、想念を超える世界を超えられないで悶々としてゐる。

今、ノンデュアリティ難民を救ふべく(苦笑)、いくつか本を企画してゐる。
一線を超えられるか。

マイナスでのバランス?

おかげさまでジャスムヒーンさんのワークショップは大盛況で終わった。
それのバランスをとるかのやうに、マイナスの出来事もいろいろ発生する(笑)。
パソコンが壊れたり、本の装丁がスムーズにいかなかったり、本の編集が思うようにいかなかったり。
プラスもあればマイナスもある(苦)。

またはネガティブ・エネルギーの影響を受けてゐるのか(笑)。
それであればはじかないとだが。

覚醒ブックス=アセンションの本

弊社で刊行している覚醒ブックスは、覚醒・悟りについて書かれた本だが、覚醒・悟りとは、この世界(時空)を超えた意識(になること)であり、つまり、この三次元・四次元から五次元に移行すること、つまりアセンション(次元上昇)である。

覚醒してゐる人が増えてゐるといふことは、全体としてのアセンションが始まってゐるといふことである。

現在は、五次元意識・世界で生きてゐる人(まだ少数?)と三次元意識・世界で生きてゐる人が共存してゐる。同じところにゐるが分かれてゐる。

覚醒ブックスは、アセンションを手伝ってゐる本(笑)。

指1本、パンパン

よく覚者が、指を1本立てたり、扇子や手でパンパン鳴らして、これが悟りだみたいなことを言ふ(笑)。

それは、それ自体が「そこ」在る。対象でないそれ自体の認識。
自己知(直接知)において、明らかになる。
自己知においては、対象なき自己が明らかになり、同時にそれ(世界・ここのもの)自体がそれ自体として明らかになる。

指が指自体であり、自己知のうちにある。
パンパンが、自己知のうちでそれ自体が鳴る。

うつけものが文化をつくる

言い訳的なタイトルだ(笑)。

足利義政が政治そっちのけで銀閣寺を作り、いろいろな文化的なことにほうけて、それが今日の日本文化の礎を築いた。その礎のもとに文化人や芸術家が輩出した。

ルネッサンスにしてもメヂチ家が金を出して文化が花ひらいた。

本来、政府なり財閥が金を出して、文化が花をひらく。

鎌倉仏教が鎌倉幕府の元で花ひらいたように、現代においてそれに相当するのはニューエイジ思想であり、覚醒(非二元)の生き方だ。政府や財閥がニューエイジをもっと応援すべきなのだ(大笑)。
彼らはそんなことはしない。逆の意味でのうつけものだ。もうからないものには手を出さない。

俺は、お金は全然無いけれど、覚醒文化のためになんとかしたい。
お金があれば足利義政にあやかりたいものだ。
なくてもなんとかしなくてはならないのかもしれないが。

大言壮語を言ってもしょうがないが。

直接知

ほとんど一人の探索であり、誰に対して伝へてゐるわけでもく、わけもわからないことを書いてゐるだけではあるが、、、

対象を持たない知(非二元の知=悟り)は、直接知であり、直接知は自己知以外にはない。
直接知は、世界が世界を照らす知だ。

体験

覚醒「体験」や一瞥「体験」は、悟りではないといふ。
悟りは「体験」ではないと。

体験になった段階で、記憶のひとつになり、本来の自己(真我)ではなくなる。
体験になる一歩前の段階が、悟り?