ノンデュアリティ難民

引き寄せ難民と言はれてから久しい(のかな)。
今は、ノンデュアリティ難民があふれてゐる。

ノンデュアリティは、理解できない人には理解できない。
一線がある。

ノンデュアリティが広まりつつある。と同時に、難民も多く出てゐる。
まわりの人たちは、一応に理解できないと言ふ。
そのもどかしさに怒りもおぼえてゐるやうだ。

引き寄せの法則とその難民たちは、想念の世界で悶々としてゐるだけだが、
ノンデュアリティ難民は、想念を超える世界を超えられないで悶々としてゐる。

今、ノンデュアリティ難民を救ふべく(苦笑)、いくつか本を企画してゐる。
一線を超えられるか。

マイナスでのバランス?

おかげさまでジャスムヒーンさんのワークショップは大盛況で終わった。
それのバランスをとるかのやうに、マイナスの出来事もいろいろ発生する(笑)。
パソコンが壊れたり、本の装丁がスムーズにいかなかったり、本の編集が思うようにいかなかったり。
プラスもあればマイナスもある(苦)。

またはネガティブ・エネルギーの影響を受けてゐるのか(笑)。
それであればはじかないとだが。

覚醒ブックス=アセンションの本

弊社で刊行している覚醒ブックスは、覚醒・悟りについて書かれた本だが、覚醒・悟りとは、この世界(時空)を超えた意識(になること)であり、つまり、この三次元・四次元から五次元に移行すること、つまりアセンション(次元上昇)である。

覚醒してゐる人が増えてゐるといふことは、全体としてのアセンションが始まってゐるといふことである。

現在は、五次元意識・世界で生きてゐる人(まだ少数?)と三次元意識・世界で生きてゐる人が共存してゐる。同じところにゐるが分かれてゐる。

覚醒ブックスは、アセンションを手伝ってゐる本(笑)。

指1本、パンパン

よく覚者が、指を1本立てたり、扇子や手でパンパン鳴らして、これが悟りだみたいなことを言ふ(笑)。

それは、それ自体が「そこ」在る。対象でないそれ自体の認識。
自己知(直接知)において、明らかになる。
自己知においては、対象なき自己が明らかになり、同時にそれ(世界・ここのもの)自体がそれ自体として明らかになる。

指が指自体であり、自己知のうちにある。
パンパンが、自己知のうちでそれ自体が鳴る。

うつけものが文化をつくる

言い訳的なタイトルだ(笑)。

足利義政が政治そっちのけで銀閣寺を作り、いろいろな文化的なことにほうけて、それが今日の日本文化の礎を築いた。その礎のもとに文化人や芸術家が輩出した。

ルネッサンスにしてもメヂチ家が金を出して文化が花ひらいた。

本来、政府なり財閥が金を出して、文化が花をひらく。

鎌倉仏教が鎌倉幕府の元で花ひらいたように、現代においてそれに相当するのはニューエイジ思想であり、覚醒(非二元)の生き方だ。政府や財閥がニューエイジをもっと応援すべきなのだ(大笑)。
彼らはそんなことはしない。逆の意味でのうつけものだ。もうからないものには手を出さない。

俺は、お金は全然無いけれど、覚醒文化のためになんとかしたい。
お金があれば足利義政にあやかりたいものだ。
なくてもなんとかしなくてはならないのかもしれないが。

大言壮語を言ってもしょうがないが。

直接知

ほとんど一人の探索であり、誰に対して伝へてゐるわけでもく、わけもわからないことを書いてゐるだけではあるが、、、

対象を持たない知(非二元の知=悟り)は、直接知であり、直接知は自己知以外にはない。
直接知は、世界が世界を照らす知だ。

体験

覚醒「体験」や一瞥「体験」は、悟りではないといふ。
悟りは「体験」ではないと。

体験になった段階で、記憶のひとつになり、本来の自己(真我)ではなくなる。
体験になる一歩前の段階が、悟り?

「それ」ではない

「それ」と対象化して認識した瞬間に、自己と「それ」との二極(二元)が生じる。
「これ」「ここ」と言っても同じ。対象化してゐる。
対象化しない「ここ」。絶対的な「ここ」。どこもかしこも「ここ」。
主観だけしかない認識。すべてが、個人でない自己。世界と自己との同一性。

先日、また別の悟った方にお会ひした。

その方は、「パンパン」といふ音に真実があって、その事実を自覚するのが悟りだと言はれてゐた。
その音を対象として認識するのではない、とのことだった。

対象化しない知といふのはだういふことか。

それを「即」と表現されてゐた。

覚醒しても、覚的世界を対象として認識してしまえば、まだ対象として見てゐる自己が残ってゐることになる。
プレゼンスを認識しても、プレゼンスを対象化しては、まだ自己が残る。
超越者を認識しても、認識してゐる自己がまだある。

対象化しない知。

認識がやむとき、対象もないし自己もない。知もない。

「パン」と氣づいたら「パン」だった・・・
自己もなく。

この方は、悟りを維持することも、戻ることも、深まることもない。大悟も小悟もないと言はれてゐた。

遠い日

今日参加した音楽イベントで、「はるかな尾瀬、遠い日を」の曲が流れていた。

遠い日。

遠い日は、月日はかなり経ってゐるが、ありありとリアルに思いだされる記憶。
そこに当時の人々がリアルに生きてゐる。自分もその当事者で。
しかし、リアルではあるが、もう戻っていくことできず、取り返しのつかない映像。
もうどうすることもできない出来事。みんな生きていたんだ。
もう帰ることができない。