悟った人はよく「探求が終った」といふ。
探求しつくして探求が終ったのではない。
探求しつくされることは決してない。
さうではなく探求それ自体が、マインド(思考)の働きであることを明らめたのだ。
探求ではなく生きること。
探求が終った人にとって、弊社の覚醒ブックスは必要がない(笑)。
そうなるのが本望だ。「探求が終る」ための覚醒ブックス。
悟った人はよく「探求が終った」といふ。
探求しつくして探求が終ったのではない。
探求しつくされることは決してない。
さうではなく探求それ自体が、マインド(思考)の働きであることを明らめたのだ。
探求ではなく生きること。
探求が終った人にとって、弊社の覚醒ブックスは必要がない(笑)。
そうなるのが本望だ。「探求が終る」ための覚醒ブックス。
最近の人は忍耐力がなかったり、突発的に引き継ぎもなく辞めたりするが(年齢がいっていても)、
今日は、面接予定の方が何の連絡もなく来なかった。
知り合いの派遣会社の人からは3人に1人が面接でバックレるといふことを聞いた。
今はそんな時代なのか・・・
やることなすこと、ほとんどうまくいかない。
運気の低調が続いてゐる。
日頃の行ひがよくないのだらうな。
運は人を選ぶと桜井章一さんは書いてゐる。
桜井章一さんは達人だが、俺はいい年をしても何にも達してゐない。
何もわからないし、どうしていいかもわからない。
力みがあり、判断力の誤りだらけ。
今までよく持ちこたえてきたと思ふ。
その辺は運がよかったのかもしれない。
でも今はまう運も尽き果ててきたかな。
さういへば、最近といふかいつもといふか、日本の政治家は偽善的だ。
利害で動き、本来だうしていったらいいかで決めてゐない。
自分も偽善者だが、俺の100倍偽善だ。
みにくい。
「働き方改革」も偽善のやうに見える。
「偽善と感傷の国」と福田恒存は言っていたな。
いつの時代にも能力者(霊能者や直感力に優れてゐる人や抜きん出た能力の人)はゐて、それを紹介する人がゐた。
波のようにさういふ人が現れてきた。
今は、そのやうな人がゐなくなった時だ。波の低い時。
10年前に活躍してゐた人達は、まう退いてしまった。嗚呼。
今は、その人達の業績を噛み締めて、発信力のある人達が発信してゐる状態だ。
今は、発想力の点で低迷期か。
突出した人よ、出て来い。
みんな神様(高次の霊的存在)を求めて神社に行く。
そこに神様がおられると思って。
神社はパワースポットに建てられてゐることが多い。
神様とは別に大地から出てゐるパワーを感じて神社を建てた。
それに神様を後からあてた感がある。
さういふパワースポットは重要だが、信望する神様がある地方地域に
固定化されてはゐないと思ふ。
神様は自由に移動できるのではないか。
神様を求めれば、そして共鳴共振できれば、いつでもどこでも神様と
つながるのではないか。
場所のエネルギーがすばらしいところと、
神様と。
覚醒もいつでもどこでも可能だ。
日常生活が即、覚醒の場所だ。
修行をどこか特別なところでするのではなくて
日常生活でする感じ。
グルジェフの第四の道だ。
(思考、感情、動作の各センターの修行をどこか特別な修行場でするのが、第一から第三の道。
三つのセンターを同時に日常で扱ふのが第四の道)
最近の人は、引継ぎもしないで辞めていく人が多い。
だうしてなのだらう?
会社がだうなってもいいといふことなんだらうな。
こちらにも責任があるのだらうけれど。
(こちらもできることはしてゐるつもりなのだが)
あと、納期が遅い人や仕事が遅い人の場合、その分、機会損失にあふので
かなりの痛手を会社は負ふ。
それで会社が危機的状況になる。
去年から今年にかけてその傾向にある(いつもなのだらうが)。
はっぱをかける、尻をたたけなければ社長の仕事ではないのかもしれない。
その人たちが仕事が遅れて会社がつぶれてしまったら給料やギャラを払へないのだから、
自分たちが仕事しないでこちらのせいにされても困る。
その分、社長は厳しくならなければならない。
ふてくさられてもめげてはいけない。
いいことがほとんどない中で仕事をするのはきつい。
耐へることしかない。
待つしかない。
何のために?
食べるため?
あるひは、何かすばらしいもの(こと)の実現のため?
まうこれでもかといふくらい災ひ(苦難)の連続だ。
なんでかうなるのだらう。
あきれてしまふ。
占ひ的には運気の低迷が2020年まで続くといふ(苦笑)。
しんどすぎる。
もつのかな。
もたなければそれで終はりだが(笑)。
これも非二元の光か。
覚醒という観点から見れば、苦しみも空である。覚的世界の一現象にすぎない。
悟った人も悟ってゐない人も骨折すれば痛い。苦痛だ。
悟った人も悟ってゐない人もお金がなくて食べ物が買えなければ空腹で苦しむ。
悟った人も悟ってゐない人も仕事がなければ生きていけない。だうしたものかと考慮する。
グルジェフに言はせれば、悟った人は外的考慮をし、悟ってない人は内的考慮をする。
外的考慮は客観的に考えることであり、内的考慮は煩悶だ。
煩悶も空ではある。
耐えることもしんどい。耐えることもしんどさも空だ。
チベットのゾクチェンは、非二元の教へであり実践であり悟り(覚醒)そのものを指してゐる。
そして心の本性にとどまり続けること実践する。
非二元は空であり輝きであるといふ。
ゾクチェンと禅はほぼ似てゐるが、禅は「輝き」のことをあまり言はない。
イスラム神秘主義(スーフィ)やクリスト教神秘主義のほうが「輝き」を多く言ふ。
「照明体験」だ。
イルミネーションであり、エンライトメント(光明)。
この輝きは、5大元素の輝きであり、心の本性(覚醒それ自体)にとどまり続けると
5大元素が整い、虹の身体へと変成していく。その技法?がトゥーゲルだ。
苦しみの中でも心の本性にとどまり続けなけば。。。
またグルジェフの話に戻るが、イエスとノーの葛藤によって〈私〉の結晶化が起こると言ってゐた。
〈私〉とはI AMであり覚的主体だ。
あっち行ったり、こっち行ったりの文章になってしまった(笑)。いつもだが。
お金のない社会であればどんなにいいことか。
会社をやってゐるとお金の交渉がある。
うんざり。
そんなことから解放されたい。
わずらわしくてしょうがない。
お金の交渉以外にも資金繰りが大変で、ストレスと気持ちの擦り切れでだうにかしてほしいといふ感じだ。
なんでこんな社会になってしまったのだらう。
まだ修行僧のはうが手ぬるい感じだ。
さうでもないか、自分のはうがずっと甘い。だらしなさすぎる。
(お金のない奉仕だけの社会であれば)
(さうなっても奉仕できない自分に幻滅するのかな)
来月出版予定のニサルガダッタの最晩年の本『意識に先立って』(仮題)の中に出てくる”I Amness”の訳語が難しい。
訳者、編集者は「私という存在性」と訳してゐる。
原語が”I Amness”で、”I AM”(われ在り、私は在る)にnessを付けたもの。
“One”と”Oneness”、kindとkindnessみたいな関係か。
「一(一なるもの)」と「一体性」
「私という存在性」だと原語の”I AM”のニュアンスが生かせない。
「私は在る」と「私は在る」性
「私は在る」性だと変なので、「私は在るという性質」
または「私は在るというもの」「私は在るという存在」
「私は在るという存在性」
難しい。
電話が超苦手で、人前で話すのも苦手で、それでメールで済ませてしまふことになる。
人事も契約(解消)のこともメールで通知する。
告げられた人は、メールで簡単に済ますのか、みたいな反応をする。複数の人からそんな反応があった。
でもメールで通知することしかできない(苦)。