アセンションとはノンデュアリティの認識のこと

続けざまに書く(笑)。

一般的なアセンションとは、地球や人間が三次元から五次元に移行する(次元上昇する)ことと言はれてゐる。

ノンデュアリティの認識(覚醒)すると、世界(地球)が三次元的な世界から、時空を超えた、つまり五次元の世界を認識するやうになる。地球が五次元に見え、自分の存在も五次元存在と認識する。
五次元で生きてゐることになる。

覚醒していない、主客の二元で生きている人は、地球は三次元にしか見えない。自分も人間も三次元としか思はない。

同じ?地球でありながら、片や五次元の地球であり、片や三次元の地球だ。
ノンデュアリティの認識をしてゐるか、ゐないかの違ひだ。

アセンデッド・マスターやETたちが、まもなくアセンションが起ると言ってゐるのは、
まもなく目覚め(覚醒)が多くの人に起るといふことを告げてゐるのだ。
そして、この数年から十数年で多くの人が目覚め(覚醒)体験をし始めてゐる。
これがアセンションだ。

アセンデッド・マスターは、十分に覚醒し、ノーマインドになった存在のことだ。

エゴが発動していまふ

何か否定的なことを言はれると、ついカチンときてしまふ。
感情的に反応してしまふ。
エゴが発動する。

全然エゴ(マインド)が落ちてゐない。落ちない。

エゴがないならば、何を言はれても平気な筈だ。
何も気にならない。いい意味で馬耳東風だ。

心を落とさなくてならない。
といふのも心(マインド)だが。

落ち切る。

山々は覚醒させる

ビルの谷間でも、室内でも覚醒できるが、雄大な山々を見ると意識が広がり、気持ちも広がり、すべてを包む、覚醒意識になる。

大自然とともに生きてゐる人々は、都会でせこせこ生きてゐる人々とは意識が違ふのだらうな。
マインドもノーマインドになってゐる時間が多いのではないだらうか。

宇宙に出たらだうなるのだらうか?
宇宙意識といふ表現もあるが。
宇宙飛行士は、覚醒体験する人が多いとも聞く。

ガンダムでは、宇宙に出た人々の中から「ニュータイプ」が出る(笑)。

人類が宇宙に出たら意識が変はるのだらうな。

その前に、大自然に。

多次元能力を発揮してゐない?!

今日、ある方のセッションを受けたら、多次元的な能力を使ってゐないと言はれた。

日常の業務は、それなりのこなし、社長業もしてゐるが、本来の力を発揮してゐない、と。
自分で自己評価を下げて制限してゐる、と。
多次元的な潜在能力があるので発揮したほうがいい、
地球と宇宙とのアンテナの能力もあるので、ちゃんとつながって発信したほうがいい、と。

自分ではわからないが、さうなのかな?

自分は「地球人」だと思ってゐたけれど、さうではないらしい(笑)。
他の人からも、さう言はれたことがあるが、やはりさうなのか。

今はくすぶり状態にあるやうだ(笑)。

多次元能力を発揮して、第二の人生を歩んだはうがいい、とアドバイスを受けた。

では、だうやってその能力を発揮していけばいいか・・・

フーマンは、ノーマインドになればなるほど超能力が出てくると言ってゐる。
自分の能力も、ノーマインドになれば発揮されるのかな。

戻ってきました(笑)

アメブロからまたこちらのはうに戻ってきました(笑)。

ドメインも変へ、タイトルも「いやいやスピリチュアル」から「ノーマインドの道」に変へました。

最近、ノーマインドがテーマになってゐるので、その名前にしました。

アメブロは、広告が多く煩雑な感じで馴染めなかったです。

スターピープルWEBの「発行人愚言録」でも書いてゐますが、そこでたくさん書くとバランスが悪くなり、個人的な色彩も強くなってしまふので、個人的なことはこちらで書くことにします。
「発行人愚言録」は、スターピープルWEBに関係しさうなときに書いていきます。

よろしくお願いします。

ハートがネック?

ここのところ書籍で『ハートの~』といふ本(翻訳本)が2冊、出版が中止となった。
また、日本人の書籍でもハートの本が難航してゐる。

ハートに何かあるのかな。

自分のハートに問題があるのか、それぞれの著者や訳者に問題があるのか、はたまた社会的に何かあるのか。

それとは直接関係ないのかあるのか(笑)、今日、ある霊能者のお試しリーディングで、
自分の過去生が平安時代初期の悪徳僧侶だったと言はれた(爆)。ダークサイドだったと。
その過去生を言はれたのは初めてだが(霊能者はみんな違ふ過去生をいふ)、今の自分はダークサイドなのかもしれない(笑)。
それでハートに問題があるのかな。

ダークサイドとは何か? 暗黒面。
結局、アナキンはどうなったのか。

イエスは祈り、ブッダは祈らなかった?

聖書や仏典を見ると、イエスは祈り、ブッダは祈ってゐない。
なぜ、イエスは祈り、ブッダは祈らなかったのか。

いろいろなものに挑戦しないといけないとき、課題や艱難があるとき、そして不安があるとき、
祈りは必要なやうに思ふ。心の安定のために。

イエスは、使命?を達成するために、祈らざるをえなかったのかな。
命をとした役割を全うするために。
神と自分との語らひの時間が必要だった。それは言葉なきコミュニケーション。

ブッダには、そのやうな課題はなかったのかもしれない。
安らぎの境地にゐればよかったのかもしれない。
梵天から、みんなに悟りのことを教ヘるように、と請はれて教へるやうになったが、
使命感といふほどでもなかったのかもしれない。

祈りには個人性がある。
個人性のない人に祈りはない(いらない)。

祈りには個人性があるが、個人を超えた要素もある。
超越と個とのせめぎあひの中で成り立つ。
非二元と二元との間で成り立つもの。

氣づきと練氣化神

「目覚め」、「覚醒」は、別の表現では、「氣づき」と表現される。
なぜ「氣」がつくのか? 「氣」と関係があるのか?

仙道では、修練法として「練氣化神」といふのがある。
氣を練って、神(仙道では意識のこと)に変化させていく、という修行。
「氣づき」を通して、「覚醒」を強化していく感じなのかな。

今度出す『悟りを生きる』も、「氣づき」の練習をするようにと書かれてゐる。
訓練をつむことによって、短期間の「氣づき」が次第に長時間の「氣づき」になると。
まさに「練氣化神」だ。
「練氣化神」とは、覚醒法なのだ。

小周天や大周天が、「練氣化神」ではないのだ。
それらはただ「氣」をめぐらせるだけのもの(?)。