テレパシーと集合意識

よく自分が考へてゐることを相手が口に出したり、自分の言ったことについて相手もそれを言はうとしてゐたと言はれたりする。

また、久しぶりに見かけたものについて、他の人からもそれについて言はれたり。

人の意識はつながってゐるやうに感じる。
集合意識みたいなものがあって、個々の意識はそこから枝分かれしてゐるのかもしれない。
集合意識につながれば、他の人の意識ともつながるのかもしれない。

テレパシーの原理のその辺にあるのかな。

「私はゐない」とは仏教の「無我」

のことを書かうと思ったが、今日(9日)はだうもツイてゐない日だった。
よくない知らせがたて続けにきた。
悪いことは重なるものだ。
しかし、良いことは重ならない。重ならないどころかめったに良いことは起きない(苦)。

減量に取り組みつつ、不摂生もしてゐるから、頭が朦朧として運を悪くしてゐるのか。

ノンデュアリティでよく言はれる「私はゐない」とは、仏教の「無我」と同じだ。
ノンデュアリティと仏教は同じことを言ってゐる。
ただ、仏教は宗教と化し、形骸化したり、葬式仏教になったりしてゐる。
仏教の本質的なところ、純粋なところが現代のノンデュアリティだ。
仏教の本質的なところと、葬式宗教とを切り離さないといけない。
葬式宗教は霊能者に任せればいい。霊的なことは霊能者に。
悟りのことは、ノンディアリティに。
仏壇に向かって、ノンデュアリティの意識になっても、死者は悟らない。
あるいは、仏壇に向かってお経を唱えるよりも、トニー・パーソンズの本を朗読したほうが、
死者も悟る(成仏する)のかな(笑)。

「私はゐない」「無我」「諸法実相」「あるがまま」「それしかない」

世界を幻想と判断するものは誰?

世界を幻想と判断するものは誰なのか。
それは、思考的であり、マインド、エゴだ。

世界は幻想でないとか、幻想だとか、頭だけの世界。

エゴがなくなれば、世界は幻想でも幻想でないもなくなる。

そこには、それこそ「それしかない」(笑)が現れるのだらう。

幻想としての現実

年とってきたせいか、いろいろなものごとに対して関心が薄れてきてゐる。

見える世界が幻想であり、超能力も霊的なことも宇宙人も幻想。
超能力も霊的なことも宇宙人もあって当たり前で普段の生活と何の変わり映えもしない。
すべてが幻想としての現実。

幻想だと思ふと氣持ちものらない。

人の真実

自分はエゴの塊りでだうしやうもないが(偽善者だが)、人の真実といふものは歴然とあるやうに思ふ。

今まで、いろいろなメディアが人の真実を伝へてきた。

弊社も人の真実を伝へていきたい。

人の真実・・・

エゴをなくすには明け渡しが必要

覚醒(一瞥:一瞥だけでなく何瞥でもあるが)は、クリシュナムルティの自己認識、グルジェフの自己想起、ラマナ・マハルシの「私は誰か」の認識をすれば起るが、
覚醒してもエゴ(マインド)は抜け落ちない。温存されたままだ。

エゴが抜け落ちるためには、明け渡し(サレンダー)が必要なのかもしれない。
神でも全体なるものでも超越者でも呼称は何でもいいが、さういふものに自分を明け渡す。
自己を放棄する。
ひたすらの明け渡し・・・

それとは別に、不思議に思ふのは、運氣といふのは悪いことは重なり、一つの悪いことがなくなると他の悪いことも消えてゆく。運氣には波がある。
エゴは運氣に振り回される。
超然としてゐれば、それこそ、エゴがなければ、振り回されなくてもすむ。
本山博さんは「超作」と言はれた。

短氣は損氣

だうもエゴが、マインドが落ちない。
すぐ短氣を起こしてしまふ。

カッとなって、壁を足で蹴ったら、足の親指が内出血してゐた。
前も椅子を蹴ったら、足の中指を怪我をし曲がったままだ(骨折か)。

肉体の怪我だけではない、進行的にも遅れ、経済的にも損をする。

短氣は損氣だとは、よく言ったものだ。

カッとなるのは、人の不愉快になることを言ってくるからだ。
電話越しに言われた場合、前は何個も携帯を壊した。

エゴがあるから、マインドがあるから反応する。
ノーマインドであれば反応しないから、カッとならない。

大坂なおみは、短氣だったが、コーチのおかげか我慢強くなり、全米オープンテニスで優勝した。
徳川家康は、我慢・忍耐で最後に勝利した。

我慢・忍耐か、ノーマンドか。
我慢は、もともと我の慢心からきた悪い意味だが、現代の用法では、耐え忍ぶ意味合いだ。

ノーマインドになれば耐える必要がない。馬耳東風だ。
エゴがあるうちは耐え忍ばなくてはならない。

早くエゴを落としたい。