このところ、路上ではマスクをしない人を多く見かけるやうになった。
マスクをしてゐても、口を出してゐる人も多い。
まう、いい加減にマスク神話にあきてきたのかもしれない。
路上で距離がかなり離れてゐれば感染のリスクはない。
誰もゐないのに外でマスクをしてゐるといふのは変。
マスクをして体育をして他界した生徒が最近も出たといふ。
よく施設とか病院とかでクラスターが発生と聞くが、
そこではみんなマスクをしてゐたのでは?
飲食店ではマスクをしないで食事や会話をするが
感染してゐない。
このところ、路上ではマスクをしない人を多く見かけるやうになった。
マスクをしてゐても、口を出してゐる人も多い。
まう、いい加減にマスク神話にあきてきたのかもしれない。
路上で距離がかなり離れてゐれば感染のリスクはない。
誰もゐないのに外でマスクをしてゐるといふのは変。
マスクをして体育をして他界した生徒が最近も出たといふ。
よく施設とか病院とかでクラスターが発生と聞くが、
そこではみんなマスクをしてゐたのでは?
飲食店ではマスクをしないで食事や会話をするが
感染してゐない。
なんかたて続けに書いてゐる(苦笑)。
そんなものか。
出版社をやってゐるせいか、世界中の優れたスピリチュアルの先生たちに会ふことができた。
日本のトップクラスの能力の先生たちにも会ふことができた。
ラッキーといへばラッキーだ。
他のスピリチュアル系の出版社の社長もいろいろな先生に会ってきたと思ふ。
みんなそれぞれラッキーなのだらうか。
それとも因縁なのか。
コロナは試金石の一つになってゐると思ふ。
ワクチンを受ける受けないで試金石になる。
その前は、コロナにおびえるかおびえないかで試金石になる。
怖れで選ぶか愛で選ぶか(といふ『奇跡のコース』の判断基準もある)。
この試金石の中で人々は振るひ分けられる?
だういふ人かがわかる。
髙木悠鼓さんの訳でジョエル・ゴールドスミスの『スピリチュアル・ヒーリングの本質』を最近出すことができた。
20年前くらいにジョエル・ゴールドスミスを日本に紹介したいなと思い、原書を1、2冊買った記憶があるが、いろいろ忙しさに翻弄されて出せずじまいだった。
数年前、髙木さんのほうから出したいと言っていただけてようやく出すことができた。
なんとも有り難いし、嬉しい。
英語ができないので中身のことをあまり知らなかったが、日本語で読んで、こんなにいいことを言っていたのかと改めて思った(笑)。
非二元に通ずるヒーリング。
神(超越者)が癒す。
オリンピックを強行するといふ(今のところ)。
一部の人達の利益?のために国民が犠牲になる。
今の時期、オリンピックをして何の意義があるといふのか。
何の意義も意味もない。
(オリンピック自体、意味がないが。笑)
緊急事態宣言の何の意味もない。茶番。(今となってはマスクも茶番?)
感染者は減らない。ほとんどが発症していないし軽症。重症者も少ない。
飲食店も新型コロナの感染源としてはかなり低いパーセントと統計で出てゐるのに
時短だとアルコール禁止だの無効なころを要請?してゐる。
飲食店は、ちゃんとした対策をすれば時短もアルコール禁止もする必要がない。
もしろ、老人の施設に対する対策をきちんとし、医療設備に投資をすべき。
効く薬をどんどん認可すべき。そうすれば重症患者が減る。
飲食店は、そろそろ要請?にはもう応じなくてもいい。
どんどん感染対策をして通常営業をすればいい。
ワクチンも必要ない。かつてインフルエンザ・ワクチンを小学生全員にさせていたが、意味がないので今は小学生にワクチンを打たなくなった。今のコロナ・ワクチンもいずれそうなると思ふい。
コロナ・ワクチンはいろいろな憶測が飛んでゐるので要注意。
旧型コロナが今の風邪だが、新型コロナは未来の風邪になるのか。
政府や都政の愚を嘆いてもしょうがないのかな。
グルジェフの「不快感の表現」になってしまふ。
10分の1か5分の1くらいにしか政治には関わらなくてもいいのか。
そんなものに自己同一化してもしょうがない。
大方は超越者の中で生きる。
あるひは、精神性の表現に生きる。
とカッコいいことをいいながら、会社の諸事に自己同一化し振り回されすぎて、
疲弊しまくってゐる(苦苦苦)。
疲れ過ぎ。
現代に於いては詩がない。
人々の心を揺り動かす詩がない。
人々から心が失はれたのか。
今は文化のない時代だから詩も生まれようがない。
文化のない時代に生きるつらさよ。
かつて福田恆存が日本を称して「偽善と感傷の國」だと言ってゐた。
まさに今回のコロナに対する姿勢も偽善そのもの。
日本は地に落ちて地下まで行ってゐる。
福田恆存は日本の文化は下の下と言ってゐたが、
現代においては、さらに下がり、下の下の下の下くらいか。
まう駄目だ。
自分の解釈ではあるが、
悟りと覚醒は、ともに自他(主観と客観)を超えた超越者の認識だが、
悟りには「安心立命」があり、覚醒(一瞥)には安心立命がない。
覚醒には、不安も迷ひも苦しみもある。要は自我が抜け落ちてゐない。
悟りは自我が抜け落ちてゐるのだらう。
「神様、お助けください」は、つらいときに出る言葉だが、そのときに神(超越者)は感じられてゐない。神(超越者)は遠い存在になってゐる。うちにゐない。
うちに神(超越者)が圧倒的臨在(プレゼンス)をもって感じられるとき、「神様、お助けください」といふ言葉は出てこない。すでにそこで救はれてゐる。
幸福もそこにある。
なぜ神は去る(?)のか。
なぜ神は来るのか。
常に在る筈の神(超越者)が。
認識と内なる感覚と。
あぁ、人の能力のなさと未熟さと哀れさよ。
存在の切ない悲しさよ。
哀れ、哀れ、哀れ。
超越者を知覚し、側近くに在ること(臨在)を内側で感じる幸福感と、政府や都政のコロナに対する頓珍漢な対応やスーパーマーケットからよい製品が消えてゆく不可解さ(店の選別の悪さ)等に対する不愉快、仕事上でのいろいろなうまく運ばなさによる何なのかといふ嘆きとの共存は可能なのだらうか。
イエスは、常に幸福を感じてゐたのだらうか。
ブッダは、常に平安を感じてゐたのららうか。
身近の不愉快さに翻弄され、究極の根本的、無条件の幸福を忘れてしまふ。
全然、悟れない。