オリンピックといふ戦ひ、スポーツといふ戦ひ

明けましておめでとうございます。

テレビとか見てゐると、今年は日本でオリンピックがあるのもあるが、オリンピックとかスポーツとかがよいもののやうに見せてゐる。
それらは端的にいへば戦ひである。相手を負かし自分(たち)が勝つ。または相手が勝ち自分(たち)が負ける。
それのどこが面白いのだらう。
人に熱狂を利用してゐるだけだ。グルジェフは、「無意味な熱情」と言ってゐた。性センターの誤用だと。
(スポーツと踊りといふ芸術は異なる。同じ動きを伴うものではあるが勝ち負けと、それ自体の動きの美しさを表現するものでは基準が異なる)

戦ひといふことでは戦争と同じである。
平和を目指そうとしてオリンピックといふ戦ひをしてゐる。全然平和でない。

戦ひをしてゐるうちは平和なんてこないのだらうな。

あるひは、この二元性の世界は戦ひが必然的につきまとふものであり、戦ひがなくなったら二元性の世界もなくなるのだらうな。
非二元の世界では戦ひはない。

One thought on “オリンピックといふ戦ひ、スポーツといふ戦ひ”

  1. 明けましておめでとうございます。

    >それらは端的にいへば戦ひである。相手を負かし自分(たち)が勝つ。または相手が勝ち自分(たち)が負ける。それのどこが面白いのだらう。
    たしかに私もそう感じます。やはりその次元に呑まれるといけないのでしょうね。
    天音さんの話では、“遊”の境地に入ると、「対立」というものにさえ対立しなくなるので、平和も競争もすべて叡智の芸術として等しく観じることができるそうです。古代ギリシャ系や神道系の神々は霊域が高く、この境地に達している方が多いので、大らかで楽しげなのだそうです。

    いよいよ本格的に令和の時代が始まります。
    各国の精神界指導者が21世紀日本から日が昇ることを予言されていましたが、まだ兆しが見えません。日本特有の考え方や伝え方でこそ、世界に響くものがあると思うのですが…。

    “商業スピ”に染まった他の出版社では出せない力を、是非ともナチュスピさんには期待しております。

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