ノンデュアリティの先生も言はれてゐるが、「私は悟った」というふ人は悟ってゐない。
「私」がある限り、それは悟りではない。
「私」がいなくなったときのありやうが「悟り(覚醒)」。
ただ、その先生曰く、「私」がゐるのもまた悟りの様相なのだ、と。すべてが悟りの様相なので、どのやうなことも悟りなのだ。悟り(純粋意識)でないものはない。
煩悩即菩提。
山川草木悉有仏性。
「私は悟った」という誤解意識も、悟りの様相。
けふの1曲。
前に違ふ演奏家のもので紹介したが、今回は日本の演奏家、漆原啓子さんのヴィターリの「シャコンヌ」
衆生本来仏なり(白隠禅師)という意味ではその通りだと思います。
ただ、自分が何かの神秘体験をして、「私は」ついに悟ったのだと
思い込んでしまう事例がありますよね。
YouTubeには、「私は悟りを開き、ブッダになりました」と堂々と
喧伝している人もいます。
だけど、やっぱり、本当に悟った人は、自分から「私は悟っている」とは言わない気がします。
>ノンデュアリティの先生
天音さんかな?
トーク会で、よくそのようなことを言われてますね。
でも表現が異なるので、昔の高僧の人かな?
いずれにしても、極めて本質的な視点ですね。
これが「ただあるがままにある」ということなのでしょうね。