ハートがネック?

ここのところ書籍で『ハートの~』といふ本(翻訳本)が2冊、出版が中止となった。
また、日本人の書籍でもハートの本が難航してゐる。

ハートに何かあるのかな。

自分のハートに問題があるのか、それぞれの著者や訳者に問題があるのか、はたまた社会的に何かあるのか。

それとは直接関係ないのかあるのか(笑)、今日、ある霊能者のお試しリーディングで、
自分の過去生が平安時代初期の悪徳僧侶だったと言はれた(爆)。ダークサイドだったと。
その過去生を言はれたのは初めてだが(霊能者はみんな違ふ過去生をいふ)、今の自分はダークサイドなのかもしれない(笑)。
それでハートに問題があるのかな。

ダークサイドとは何か? 暗黒面。
結局、アナキンはどうなったのか。

イエスは祈り、ブッダは祈らなかった?

聖書や仏典を見ると、イエスは祈り、ブッダは祈ってゐない。
なぜ、イエスは祈り、ブッダは祈らなかったのか。

いろいろなものに挑戦しないといけないとき、課題や艱難があるとき、そして不安があるとき、
祈りは必要なやうに思ふ。心の安定のために。

イエスは、使命?を達成するために、祈らざるをえなかったのかな。
命をとした役割を全うするために。
神と自分との語らひの時間が必要だった。それは言葉なきコミュニケーション。

ブッダには、そのやうな課題はなかったのかもしれない。
安らぎの境地にゐればよかったのかもしれない。
梵天から、みんなに悟りのことを教ヘるように、と請はれて教へるやうになったが、
使命感といふほどでもなかったのかもしれない。

祈りには個人性がある。
個人性のない人に祈りはない(いらない)。

祈りには個人性があるが、個人を超えた要素もある。
超越と個とのせめぎあひの中で成り立つ。
非二元と二元との間で成り立つもの。

氣づきと練氣化神

「目覚め」、「覚醒」は、別の表現では、「氣づき」と表現される。
なぜ「氣」がつくのか? 「氣」と関係があるのか?

仙道では、修練法として「練氣化神」といふのがある。
氣を練って、神(仙道では意識のこと)に変化させていく、という修行。
「氣づき」を通して、「覚醒」を強化していく感じなのかな。

今度出す『悟りを生きる』も、「氣づき」の練習をするようにと書かれてゐる。
訓練をつむことによって、短期間の「氣づき」が次第に長時間の「氣づき」になると。
まさに「練氣化神」だ。
「練氣化神」とは、覚醒法なのだ。

小周天や大周天が、「練氣化神」ではないのだ。
それらはただ「氣」をめぐらせるだけのもの(?)。

夏の大祓ひ

6月の末日は、半年に1度の大祓ひの日。
神社では、茅の輪くぐりを行ってゐる。

それに合わせて弊社では、半年の大祓ひで社内飲み会を年中行事の一つとして行ってゐる。
29日に行ったが、スパークリングワイン、ビール、日本酒、赤ワインとチャンポンしてしまって、悪酔ひしてしまった(苦)。昨日、今日と体調がよくない。2日酔ひ3日酔ひ。
アルコール依存症の自分でも、昨日今日はアルコールは飲めなかった(笑)。

今年も半年が終り、気候は夏真っ盛りの状況だ。