神は人の願望の道具?

神や天使や日本の神々は、人の願望の道具、使ひぱしりなのか?
天使は、天の使ひであって、人の使ひではない。
使ひぱしりは見当違ひのやうに思ふ。
日本の神々もさうだ。

神(絶対神)は、二元を超越してゐるがゆえに、人の二元的な願望には関心がないやうに思ふ。

ただ、奇特な存在もゐる。
菩薩は、特に観音菩薩は、人々のあらゆる苦しみを救ふという望みを持ってゐるらしい。
イエスは、上着をとられたら下着も与へなさい、と言った。
相手の願望をかなへる、かなへたい存在もゐるやうだ。

人間としてはだうなのだらう?
相手の願望をかなへてあげたいだらうか?
相手の願望の使ひぱしりになれるか。

さういへば、居酒屋の挨拶で、
「はい、喜んで」といふのがあった(笑)。

アメリカ人は、人に対して「何か助けてあげられることはありますか」(May I help you?)といふのが口ぐせらしい。

人間の願望実現のためには神々や天使、霊に頼らず、人間がかなへてあげればいいのかもしれない。
他人が何か望んでいたら、「はい、喜んで」助けてあげられたら。

言葉の力

言葉には願望実現する力がある、といふ話ではない(笑)。

言葉の力、といふか詩の力といふべきか、言葉には独特のイマジネーションの力があり、それがグッと心に迫るといふか、独自の力、魔術がある。

それは今日、忘年会の二次会のカラオケ屋さんで、カラオケの歌詞を見ていて感じた。
作詞家は、工夫しながら言葉を紡ぎ出してゐる。見事な言葉の数々。

その中で感心したのは『なごり雪』の詩の中の「時がゆけば」という言葉。
時がゆく、とはだういふことだらう?
そこにはいろいろな要素が入ってゐる。入り過ぎるほどに。
その言葉だけで、圧倒されてしまった。

言葉といふものはこの世的で、二元的なものではあるが、
言葉を駆使することは、魔術をつくりだす。

初めに言葉ありき。

苦難とか試練とか

苦難とか試練とか一言で言はれるけれど、二語の言葉以上にきつい。
そして、自分の苦難のきつさはわかるが、人の苦難のきつさはわからない。
平気で人を傷つけてしまふ。

一瞥(小悟)しても苦難は消えない。
悟り(大悟)を得たら苦難は消えるのか。

イエスは苦難を感じたか。

祈っても苦難は消えない。
ただ耐える力は得られる。

イエスとは何者?

熱い男?(笑)
30代前半でなくなったとされてゐるので(実は何歳まで生きたかは諸説あるが)、若いイメージがある。
中年や老年のイエスはどんな感じになってゐたのだらう?
もしその世代のイエスがゐたら、自分にとっても参考になるのかな。若いイエスも参考にはなるが。

神を宿したイエス。

一人で世界をひっくり返してしまった人。

人類にとっては永遠の課題。

来年、イエスの本を何冊か出していくけれど、どんな感じで傳はっていくのかな。

人々の悲しみも苦しみもすべて背負うといふ・・・

聖なる息吹き

クリスマス・シーズンになるとクリスマス・ソングが街中に流れる。
今現在の状況はクリスマスでも年末でもないない状況で、全然そんな気分ではないのだが、
(今年はクリスマスなんてしないんだらうな)
クリスマス・ソングを聴くと、どの曲もさうなのだが、そこに聖なる息吹きを感じる。
クリストのエネルギーが降り注ぐのか、人々のクリストへの想ひが聖なるものにつながり、曲に顕れるのか。

仏教では、ブッダへの想ひでは、聖なるものへつながらない(笑)。
覚醒といふ非二元の聖なる空間を明らかにした人ではあるが。
なぜだらう。

ブッダはまだまだ人間的なのかもしれない。
イエスは聖なる存在が人間化したもの。または、聖なるものが人の魂に宿った。

山川草木悉有仏性
聖なるものはすべてのものに宿ってゐる。

スピリチュアルは日本から世界に発信するやうになる

といろいろな人が言はれてゐるが、うそだと思ふ。
今までいろいろな人が試みたがほとんど失敗してゐる。
弊社も試みたが失敗した(苦)。

それぞれの国でできることをしていくしかないのだと思ふ。

日本人は自分たちが優れてゐると思ひたいのかもしれないけれど、
日本はスピのレベルが低いのかな。
少なくとも非二元のレベルは低いやうな。
チャネリングのレベルも低い。
それに能力のある人は表に出てこようとしない(苦)。
これでは日本のレベルが上がらない。

ボブ・ディラン

先日NHKで放映してゐたスコセッシ監督のボブ・ディランの映像作品(前編・後編)はとても刺激的だ。
ボブ・ディランの詩の才能にはものすごいものがある。
ノーベル文学賞を取るだけののものがある。

時代を動かしてきた。
時代を動かすだけでなく真理にも触れた作品を世に出してきた。

ボブ・ディランの人相にもその真のものが出てゐる。

その映像作品を見てゐる人は納得してゐると思ふが見てゐない人はオンデマンドか何かで見てほしい。
そこには何かの真実がある、といふことを。

いろいろ学ばされる。

能力

僕も含めて能力のない人は多い。能力のある人は一部。
性格が悪いのは論外だが、性格がよくても能力がないと質のいいものができない。話にならない。

昔、コンピュータのプログラム開発の仕事をしていたときに聞いた話。
5人の能力のないプログラマーが、プログラムを作っていたが一向に完成しなかったところへ、
優秀な1人のプログラマーが参加することによってあっという間にプログラムが完成したという。
5人のプログラマーは何の役にも立たなかった。その職場にはいなくてもいい存在(笑)。

出版にも他の業務にもそれは言へる。
能力がない人にお願いするとはかどらないし、質もいいものが上がってこない。
大部分がさういふ人。あぁ。
能力のある人が、質のいいものを作っていく。売れるものを作っていく。

能力のない人はだうすればいいのかな。自分の能力にあった適職につくこと。

能力がなくても、その人の人格を否定するといふことではない。否定しない。尊重する。
ただ、あぁと思ふ。

目的社会(仕事)では、能力のある人だけが結果を出せる。

がんばっても能力がなければ結果が出ない。

パワフルな時代を過ぎると

パワフルな年齢のときは「引き寄せの法則」だの「願望実現の法則」だのに関心をもち、ああだかうだするが、パワフルな年代を過ぎると、もはや、さういふことにさくエネルギーがなくなる。
まう生きる先に「死」が見えてゐる。死が見える中での引き寄せや願望実現云々はむなしい。

「死」が見えてきてゐる世代では、諦観であきらめの境地で生きるか、神との関係で「永遠の相」で生きるていくか。

神(すべての根底にある超越したあるもの。二元を超えた存在)をしっかりと把握し、死を超え、肉体を超えて、意識として(非二元の意識として)永遠存在として生きていくのかだうか。

『奇跡のコース』とはさういふ本だらう。
(分量が多くて、理屈っぽいが。苦笑)

反応しない

ちやうど来月出版(復刊)予定の『バーソロミュー3』のチェックをしていたら、かういふ文章で出会った。
(前も読んでいたけれど、すっかり忘れてゐた)

「イライラなどの感情が自分のなかにあるからといって、それを外界で表現しなければならない
ということにはなりません。自分を傷つけた相手に向かって、どんなに傷ついたかを常に思い知
らせる必要はありません。(中略)考えを押しとどめて、感情が生まれないようにし、それらのすべてを通り越した心の内なる場所に降りていき、平和と静寂と無批判のパワーのなかで憩うことを選択することも可能です。どんなときでもこのやり方を選ぶことができます。」

反応せず、「平和と静寂と無批判のパワーのなかで憩うこと」ができたら。
昨日のやうな馬鹿だの阿呆だのイライラはしなくなる。

また、バーソロミューは、かうも言ってゐる。
「目の前の障害に対して怒り、イライラしている自分を発見したら、唱えるのです。『すべ
ては神である』」

未熟すぎる自分だが、トライしてみよう。

今までは、ものに当たったりしてきた。その結果、ものが壊れたり。
最近では、椅子を蹴って逆に足をくじいてしまった(苦)。