イエスは尸解仙(しかいせん)

尸解仙(しかいせん)とは、道教の言葉で死んだときに肉体が消える人を指す。
チベットのボン教やチベット仏教のゾクチェンでは、ゾクチェンの修行ができてゐる人は死ぬときに、徐々に体が小さくなり、最後には消えていくといふ。そして虹の体(レンボーボディ)になる。

イエスも肉体が死んだとき、洞窟の墓場に入れられ封じられてゐたが、翌日明けてみたら肉体が消えてゐたといふ。その後、弟子達や信奉者達に肉眼で見える形でしばしば現れたといふ。虹の体を獲得し、物質化に近い状態まで変成もできるスキルを身につけたのだろう。しばらく見える形で現れたといふが、その後は見える形では現れなくなった。虹の体のまま活躍してゐるのだらう。
イエスはまさに尸解仙だ。

尸解仙は日本でも国安仙人ほか、何人かゐるやうだ。

生きてゐるときに昇天する「白日昇天」も、死ぬ時期が来たとわかって昇天する(肉体を消す)のだ。
ゾクチェン修行者が死ぬときに、テントに入って死ぬ準備をして消えるやうに。
みんなある意味、尸解仙だ。

イエスも道教やゾクチェンのやうな修行をしてゐたのかもしれない。

心の内に神を祭ること

『よひとやむみな』の心の内に神を祭ることって、心の中に神棚みたいなものを想定して、お札みたなものを置くイメージがあったが(笑)、そんなちっぽけなものではないのかな。
エゴ(想いや考え)を捨てたときの意識に顕れる、ドバーっと広大なものといふのが合ってゐるのかと思ふ。

真我認識と神を内に祭ること

ノンデュアリティ(非二元)の「真我認識」と、『よひとやむみな』で言はれてゐる「心の中心に神を祭ること」とは関連してゐるのであらうか。

意識(心)の周辺にゴモク(ゴミ)といふエゴや欲や善い悪いを判断する思考や感情があり、中心に台風の目のやうな静かな心があり、そこに意識をもっていくと神や宇宙とつながると『よひとやむみな』では伝へてゐる。
その中心に意識を置くとき、神を祭る場所ができ、そこに神が入ってくるといふ。

これはまさに「真我認識」(覚醒・悟り)と同じものだ。
想いに浸ること(エゴ)をやめ、主客同時認識によって、真我を認識する。真我は超越者でもある。
しかし、「真我認識」には中心がない。内もない。あるひは、外も内もすべてが内か。

「身魂磨き」とは、「真我認識」に他ならない。

真我を認識できてゐれば、大峠が来ても来なくても、どうといふことはなくなると『よひとやむみな』は言ってゐるのかもしれない。

ナチュラルスピリットも、エゴをやめ、真我(神)を認識しようといふ情報を伝へてゐるだけなのかもしれない。
それ以外の情報(霊的世界のことやその他)も伝へてはゐるが。

真我の認識が無条件の愛の生き方につながる

真我(神)を認識して生きることが、(無条件の)愛の生き方でもあると思ふ。
逆に、無条件の愛で生きようとするとき、真我(神)の認識が生じる。

禅とか、茶道その他の道も、思考を介さずにただ在ること、ただ在る生きたかを伝へるが、
ただ在るだけでは機械的な印象を受けるが、そこには真我認識、神とともに在る認識が伴ってゐると思ふ。
ただ在る生き方は、万物と一体であり、超越者(神)と共に在る生き方である。そこに愛がある。

医師も適当

整形外科の医師も適当。
一昨日、傷を縫ったところを抜糸してもらったが、今日みたら、糸が残っていた。
自分でピンセットで抜いた(笑)。

今回、何人かの整形外科の人に傷の消毒をしてもらったが、みんなやり方が違っていたり、適当だったり、自分の都合を押し付けて早く来いと言はれたり。

医者なんて、そんなものなのかな。

さう言へば、だいぶ前に皮膚科に行ったときに、患部を診ないで適当に処方されたことがあった(苦)。

看護師

足の傷で病院に通院してゐるが、看護師のスキルはまちまち。包帯も適当に巻く(本人はがんばて巻いてゐる?)人が多い。あとでほつれたりする。
中には、きっちり巻いてくれる人もゐるがごく少数。
看護師のレベルは高くない。
(看護師は適当に思ふ)

これはどの会社にもあれはまるのかな。
多くの会社員は、レベルが高くないのかな、と。
ごく一部の会社員にレベルの高い人がゐるのかと。

NHK番組の感想

NHKの番組の、WBCの日本の栗山元監督とユニクロの柳井さんの対談を見た。
柳井さんの意見はごもっともと思った。経営者であればみんな同じ感想や意見だと思ふ。
連戦連敗。問題の連続。

AIが今後30年の未来の可能性を6つのパターンで示したNHKスペシャルの番組。
失われた30年について、原因は消費税だといふ持論を自分は言ってゐるが、消費税および税制について番組では何も言ってゐなかった。非常に残念。
また価値観についても何も言ってゐなかった。
スピリチュアルについての認識がどれだけ社会に浸透するかによって今後の30年は大きく変はると思ふがその要素に触れてゐない。