真我認識と神を内に祭ること

ノンデュアリティ(非二元)の「真我認識」と、『よひとやむみな』で言はれてゐる「心の中心に神を祭ること」とは関連してゐるのであらうか。

意識(心)の周辺にゴモク(ゴミ)といふエゴや欲や善い悪いを判断する思考や感情があり、中心に台風の目のやうな静かな心があり、そこに意識をもっていくと神や宇宙とつながると『よひとやむみな』では伝へてゐる。
その中心に意識を置くとき、神を祭る場所ができ、そこに神が入ってくるといふ。

これはまさに「真我認識」(覚醒・悟り)と同じものだ。
想いに浸ること(エゴ)をやめ、主客同時認識によって、真我を認識する。真我は超越者でもある。
しかし、「真我認識」には中心がない。内もない。あるひは、外も内もすべてが内か。

「身魂磨き」とは、「真我認識」に他ならない。

真我を認識できてゐれば、大峠が来ても来なくても、どうといふことはなくなると『よひとやむみな』は言ってゐるのかもしれない。

ナチュラルスピリットも、エゴをやめ、真我(神)を認識しようといふ情報を伝へてゐるだけなのかもしれない。
それ以外の情報(霊的世界のことやその他)も伝へてはゐるが。

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