覚醒と悟りは違ふ

最近は覚醒体験(一瞥体験)をする人も増えてきた。
しかしそれが悟りかといふと違ふと思ふ。

悟りには得心や安心立命みたいなものがあるやうに思ふ。
欲に走らなくなる。
暴飲暴食もしなくなるのではと思ふ(笑)。

覚醒体験には、まだエゴがある。
また、満たされないものがある。

悟った人には、エゴがない。
エゴがないだけではない。そんなに軽くない。異常人間(尋常ではない人間)。
万物と一体で流れのままに生きてゐる。
一番自然なのかもしれないけれど。

覚醒した人は五次元に住んでゐる

同じ世界にゐても、覚醒してゐる人とさうでない人(眠ってゐる人)は、見えている世界が違ふ。
覚醒してゐる人は静寂の中で、輝いてゐて、超越したものを感じ、ワンネスを見て感じてゐる。
眠ってゐる人は曇った世界(三次元の世界)を見てゐる。
住んでゐる世界が違ふ。同じところに居ながら。
五次元に住んでゐる人と三次元に住んでゐる人は共存してゐる。会話もできる。
(覚醒した人は、アセンションした人である)

五次元に住んでゐる人は『聖なる予言』で示されてゐるやうな三次元に生きてゐる人からは見えなくなるわけではないと思ふ。波動が上がって消えるといふのとは違ふ。

ゾクチェンのマスターや仙人が「虹の体」になって消えるやうだが、まだ仕組みがよくわからない。
ゾクチェンの人は死ぬときに、7日間かけて体が小さくなり、うまくいけば髪と爪だけ残して消えるやうだが、その仕組みとは?
尸解仙も死ぬときに消える。
覚醒をずっとやってゐると「虹の体」になるのだらうか。それとも小周天や大周天をずっとやることで「虹の体」になるのか。
ゾクチェンでは、小周天や大周天のことは言はない。

眠ってゐる人が死んで幽界や霊界に行くのと、覚醒した人が死んでいく世界は違ふのかな。
覚醒した人は死後どこにいくのか。涅槃(ニルヴァーナ)か。どんな世界? この世にゐるときも見てゐた世界?

大峠と身魂磨き

『よひとやむみな』では「大峠が近々来るので早く身魂磨きをしてくれ」と説かれてゐるが、
大峠といふ天変地異や世界規模の戦争は、客観世界(相対世界)での出来事だ。主客の世界の出来事だ。
主客を超えた世界(真我)では、相対世界がどうなろうと関知しない。
ラマナ・マハルシは、戦争が起こってゐる世界について聞かれたときに、「世界の事は世界に任せなさい」と言った。
身魂磨きとは、覚醒することによって主客を超えた意識で生きることであり、そうなることによって大峠だらうと何だらうと物ともしないで生きられることを指してゐる。

戦争や環境破壊は人間のエゴがなくならない限りなくならないし、天災もなくならない。
反戦運動や環境運動等、現象界(相対世界)を変へようとしても変はらない。
ただ眺めるしか(覚醒してゐるしか)ない。
相対世界に住みつつ相対世界の住人にならないこと。
そして身近なところで備えるだけ。備えられなかった諦めるしかない。
主客を超えた世界の住人になること。

惚(ほう)けてきた

毎日のやうな暴飲暴食で、だいぶ頭が惚けてきた。
あまり思考も働かなくなった。脳がやられたのかな。
覚醒への意欲も減退。年なのか。諦めたのか。

これでいいのかもしれない。
覚醒への操作をすることがないといふことが。
そのままで生きることが。

スピリチュアルな活動をしてゐる人や、それの売り込み、お誘いも煩わしい。
人とあまり接したくない。

星降る夜空

東京では、地方の町でも、星降る夜空を見ることはできなくなった。
山奥のほうに行けば、また世界の僻地に行けば、星降る夜を見ることができる。
人々は、数多(あまた)の星と共に生きてきた。

その体感が今はない。

テレビの映像では夜空や星々の映像を見ることができるが、
テレビといふ枠の中だけのこと。
視界一面ではない。

人は自然(宇宙)を失ひ、妄想の世界に住むやうになった。

あるひは、星に想ひを(全身として)馳せなくなった。

愛の空間

いろいろなことに忙殺され、いろいろなことが起こり、こちらのほうの書き込みは間があいてしまった(笑)。

覚醒の空間は、別の表現では愛の空間といへる。
愛の空間を感じるとき、人は満たされる。

愛は神であり、神は愛である、といふのも、さういふことを指すのかな。

心を常に愛の空間に向けてゐたい。

日本の建国は奪う(征服の)建国

日本は、記紀の伝説では、神武が日向(宮崎)から進軍して、大和(奈良)や和歌山に住んでゐた人々を征服して作った国。元々住んでいた住民にとってはたまったものではない。
記紀においては、その後も天皇家は親族で殺し合ひをしてきた。(落ち着くのは奈良時代くらいからか)

神話においても、オオクニヌシ(オオナムチ)の国をアマテラスが奪った。オオクニヌシや子孫は殺されたり幽閉されたりした。

建国記念の日は、祝ふ日ではなく、さういふことを考へる日だ。

イエスは尸解仙(しかいせん)

尸解仙(しかいせん)とは、道教の言葉で死んだときに肉体が消える人を指す。
チベットのボン教やチベット仏教のゾクチェンでは、ゾクチェンの修行ができてゐる人は死ぬときに、徐々に体が小さくなり、最後には消えていくといふ。そして虹の体(レンボーボディ)になる。

イエスも肉体が死んだとき、洞窟の墓場に入れられ封じられてゐたが、翌日明けてみたら肉体が消えてゐたといふ。その後、弟子達や信奉者達に肉眼で見える形でしばしば現れたといふ。虹の体を獲得し、物質化に近い状態まで変成もできるスキルを身につけたのだろう。しばらく見える形で現れたといふが、その後は見える形では現れなくなった。虹の体のまま活躍してゐるのだらう。
イエスはまさに尸解仙だ。

尸解仙は日本でも国安仙人ほか、何人かゐるやうだ。

生きてゐるときに昇天する「白日昇天」も、死ぬ時期が来たとわかって昇天する(肉体を消す)のだ。
ゾクチェン修行者が死ぬときに、テントに入って死ぬ準備をして消えるやうに。
みんなある意味、尸解仙だ。

イエスも道教やゾクチェンのやうな修行をしてゐたのかもしれない。