明かりが灯った人

イエス・キリストの使徒たちやフランチェスコなどは、絵などで頭に光のオーラが描かれてゐるが、実際にその人達に会ったら光が灯ってゐて輝いてゐるやうに見えるのだらうな。
聖なる光が宿ったといふか。

英語でエンライトメント(Enlightenment)といふ表現があるが、光が灯された、光明を得た、といふところから「悟り」とも訳される。

では、「悟り」のメッカ、仏教では、悟った人は明かりが灯っているのだらうか?
光輝いてゐるだらうか。
あまりさういふイメージがない。
なぜか?

神道では、清く明るい心を尊ぶ。
そのやうな人も明かりが灯った人なのかな。

メッカのメッカ、イスラム教ではだうか?
イスラム教、特にスーフィーでは「照明体験」といふことが言はれる。
自分が光るといふより、超越的なものから光が照射される体験。
でも、ルーミーあたりは光が灯っていたようなイメージがある。

神に酔いしれる人に、明かりが灯るのだらうか。

神からライターかマッチでろうそくに火を灯されるやうに、人は輝くのだらうか。

ルーミーもフランチェスコも旋廻する。

自己を超越した何か明け渡し、その超越した何かによって生きてゐる人。
その人を通して、超越した何かが感じられる。

愛の道

不愉快なことがあると、「不快感を表現しない」といふことがなかなかできない。
それに「自己同一化」し「内的考慮」(ああだかうだとじくじく考えること)をしてしまふ。

「内的考慮」をしないためには、「愛の道」をいく必要がある。
「愛の道」をいけば、愛に徹してゐれば「内的考慮」をしないですむ。
相手の氣持ちを慮り、思ひやりをもち、「外的考慮」もできる。
「愛の道」を行けば、自己が落ちる。
覚醒の空間がひろがる。

記憶と不快感

今日も嫌なことがあった。
(開運行為を昨日行ったが、全然効果がなかったか、好転反応か)
その記憶で不愉快な気持ちが続いてしまった。

不快感の表現をしない訓練をするにはいい機会ではある(苦笑)。
さういふ意味では感謝だ(苦)。

よく禅僧の話で、弟子が何かの記憶(食べ物等)にひきづられてゐて、
それを禅僧が諫める話があるが、自分も記憶にひきづられてしまふ。
だうでもいいと思へればいいのだが、記憶がよみがえってきてどうしようもなくなる。
それでも不快感の表現はしないやうにしようと思ふ(苦)。
禅僧は記憶を超越してゐるのか、忘れてしまふのか。感じないのか。

不快感を表現しない訓練中が、グルジェフのいふ「人間第4番」の状態だ。
不快感を表現しない禅僧は「人間第5番」だ。

早く渡りきりたい。

不快感を表現してきた人生が長いな・・・

不快感を表現しないこと

グルジェフの第二のショック「不快感を表現しないこと」は、自己(エゴ、自我)がないときに実現できる。
自分があると、何かあったときに不快に感じてしまふ。
自分がないと、何を言はれても不快に感じない。

グルジェフの第二のショックは、無我(ノーエゴ)の訓練(道)である。

自己想起をし、その次に無我。

内的進化の道

グルジェフは内的な進化の道として、最初に「自己想起」(見てゐる自分を見ること)を説く。
これが、第一番目の意識的なショックだ。
そして次の第二番目の意識的なショックとして、感情に働きかける、「不快感を表現しないこと」
「自己同一化、内的考慮をしないこと」を説く。
この二番目のショックがない限り、高次感情センター(もそれに続く高次思考センター)は機能せず、
内的進化も起らない。

自分の場合、不快感を表現しなくりだ。全然、二番目のショックができていない。
これからは、その辺を取り組むのが自分の「ワーク」なのかな。

氣力の低下

最近、年のせいか氣力と體力が低下してゐる。氣力が出ない。
出すべき本をだいたい出したせいか。
一時期、「老人力」といふ言葉が流行ったが、ある年代に達すると、若さのバリバリといふふうにはいかなくなるのだらう。欲も衰えるのだらう。
なんの欲もない(といふとウソになるが、笑)。
(音の追求といふのが、一つの欲になってゐる)

たぶん、これから出てくる若い人たちのエネルギーといふのも必要なのだらう。
さういふ人たちが、次の時代を作っていくのだ。

それと並行して、「老人力」ではないが、年をとった人たちならではの「何か」が発揮される
必要があるのではないかと思ふ。
欲がなくなった先にあるもの。
氣力がなくなった先にあるもの。

この世に対する欲がなくなったとき、何が顕れるのだらうか。
垂直に顕れるもの。

弊社では、さういふものも提供していきたい。
(それだけでなく、いろいろ提供したいものはあるが、笑)

能力の低下

最近?、一部の人を除いて能力が低下してゐるのを感じる(自分も含めて)。

なぜ、こんなにレベルが下がったのだらう?
(もともとそんなレベルだったのか?)

スマホのせい? おそらく。

単純に見ることができなくなっているばかりでなく、
日本語能力も落ちてゐる。

日本語能力を扱ふ会社で、これは困る。

美しい、通る文章を提供しなくては。

切れるような日本語を読んでみたい。

「いまここ」から「いまここが天国である」へ

覚醒系(ノンデュアリティ系)では、「いまここ」が大切といふ。
マインドは、未来か過去のどこかを思ってゐて「いまここ」にゐないから、覚醒すると「いまここ」だけになる。
ただ、「いまここ」だけだと平面だ。ただの現実世界だけだ。
「いまここが天国である」と認識するとき(覚醒するとき)、縦軸として「天国」があらはになる。
「いまここ」という平面と「天国」といふ垂直が交はる。

「いまここ」が逆境といふ状況だらうと「天国」が顕現してゐる。
地獄で天国。

「煩悩即菩提」といふのも、煩悩と菩提が同じものだといふ見方もできるけれど、
横軸と縦軸といふ見方もできる。
煩悩の中にあっても、菩提が顕現してゐる。

ペースを落とす

今度出す本『何が、起きても、それを、愛する』(マット・カーン著、仮題)に、ペースを落とすことが書かれてゐる。ハートで生きるためにはペースを落とすことが必要だと。ゆったりすることが必要だと。
アラン・コーエンさんも同じようなことを言ってゐる。

今まで、野望を持ち、欲のままにガムシャラに、渇かつとして生きてきた。ああしたい、かうしたいと闘争してきた。そしてストレスを抱へ、酒に溺れ、暴食をし、他のことにも溺れ、頭も朦朧として、いかれた状態だった。

出したいと思ってゐた本(分野)もだいたい出し終わり(まだあるといへばあるが)希望(夢)を失ひ、毎日の多量の事務的な対応に追われ、気力も体力も落ち、精神と神経が擦り減って、不適応状態になってゐた(る)。

今は、ペースを落とす必要がある。
多量の事務的な対応もあまりしたくないし、しないようにしよう。
本も出し過ぎないやうにしよう。

まう、これといった欲もないし。
ゆったりと生きていかうと思ふ。

キリストのビジョン

この世界は幻想であり、諸行無常ではあるが、キリストのビジョンで見ると永遠の相で見える。神の世界が見える。神が常に在る、神とともに在る、神の中に在る。
そこに救ひがあるのだらう。

天国は死んでから行くものではなく、生きてゐながら天国にゐることができる。キリストのビジョンで生きるならば。

使徒たちは、さうやって生きてゐたのだ。彼らには光が灯ってゐた。キリストの光が。