武蔵野

東京はセミの種類が多い。また野鳥の種類も多い。
田舎の山形県の酒田にはそんなにセミの種類も野鳥の種類もいないので、東京に上京したときは驚いた。
東京は人口の増加とともに武蔵野の自然を破壊していった。
かろうじてほんの一部だけ武蔵野の面影が残っているところもあるが・・・

自然が破壊されてもセミや野鳥の種類が多いといふのは、それだけの包容力を武蔵野は持っているのかもしれない。

縄文の遺跡も川沿いに結構あるし、生活もしやすかったのかもしれない。

今の東京の町だらけのと昔の武蔵野とのが二重映しに見える。

反神武、反天津神

どちらかといへば反神武、反天津神だ。
神武も天津神もどちらも征服者。

大国主が日本を治めていたのを、渡来?(朝鮮、ユダヤ?)の民(天津神)が国を譲れと武で脅して譲らせた。
それで降り立ったのが高千穂という日本の中心部の外れのところといふのも面白いが。
全国(中心は奈良、三輪山)を治めていた大国主は、出雲に幽閉された。

神武も九州の日向(宮崎県)の地から東征して大和(奈良県)に熊野側から攻め入って、征服してしまった。
その過程で、地元の部族を皆殺しにしていった。
何の必要性があって九州から奈良地方に攻め込んできたのか。
弥生時代から古墳時代にかけての動乱の時代だったのだらうけれど。
それで銅鐸文化が滅んだ。
三本足のカラス(ヤタガラス)など高句麗と共通項があり、天皇家はそっち方面なのか。
最初に九州に入り、その後に奈良を征服していったのか。
言語的に高句麗、扶余系の言葉と共通するところもあるようなので。

古事記、日本書紀は外部からの征服の歴史だ。

日本の神々はだうなってゐるのか。
とっくに和解して、古今の神々(国津神と天津神)が協力してお守りしてくださってゐるのか。
または、さうでないか(苦)。

縄文はだうなったのか。

弥生とは何だったのか。

非二元のワークショップ

最近の傾向としてワークショップの集客は二極化してゐる。
人気のある先生はすぐ満員になり、そうでない先生はなかなか集まらない(苦)。

ここ数年、非二元の先生たち(海外含む)にワークショップの開催の打診をしてきたが、なかなか実現する数が少ない。
非二元の先生たちは変わった人が多い(のかな)(笑)。

いろいろな人がゐる。中にはファーストクラスやビジネスクラスを要求してくる先生もゐる。健康面を考えてらしいが。

細かい人もゐるし、あまり氣にしない人もゐる。

もっと非二元のワークショップ(お話会)をして、もっと非二元を盛り上げていきたい。
もっと非二元に目覚める人が増えてほしい。

非二元難民を減らしたい(笑)。

エネルギー不足?

最近、流行歌も出ない。
この話題は前から言ってゐるけれど(苦笑)、今、文化を創るエネルギーが不足してゐるやうに思ふ。
人々の集合意識を動かすエネルギーが不足してゐる。
創造の源につながり、そこからエネルギーを汲み出すエネルギーが枯渇してゐる。

低文化時代。

人々はゲームにはまり、ネットにはまり、エネルギーがそこに吸い取られてゐるのかもしれない。

エネルギー不足だと、人の真実が薄っぺらいものになってしまふ。
偽善になってしまふ(苦)。

今の時代における人の真実を表現できてゐない。

といふことは、もう前の時代とは変はってしまったのだ。意識が。
そしてそのことに気づかず、前の時代の文化、生き方を形として踏襲してゐるだけになってしまってゐるのだ。
だうしていいかわからずに。
さうしていれば安心だといはんばかりに。

今は破綻の中で、源につながるしかないのだ。

アーティストよ、創造の源につながれ!

脱力と悟りの関係

筋肉が緊張したまま(力が入ったまま)なのは、何かの想ひ(思考)に浸ってゐるからだ。想ひが筋肉の緊張をもたらす。
ストレスも想ひからくる。

想ひに浸ることをやめると(想ひに対する自己同一化をやめると)、覚醒(一瞥)が起こる。
完全に想ひに浸ることをやめ、自我が抜け落ちると悟りが現れる。

悟ってゐる人は、想ひに浸っていないから筋肉の緊張がない。脱力状態だ。
悟ってゐるかゐないかを見分ける方法の一つは、顔や身体に緊張感があるかだうかだ。
顔がだらっとしてゐる人は白痴か悟った人(覚者)かだ(笑)。
緊張のある顔の人は、悟ってゐない。

黒住宗忠は、白痴のやうに見られるやうになって喜んだといふ。
それだけ本物になったといふことなのだらう。

良寛もさうだ。

一休さんではないが、一休み、一休み。

一発屋と継続的なヒットを出す人との違ひは?

歌にしろ何にしろ一発屋と継続的なヒットを出す人との違ひは何だらう?
一発屋は1回しかインスピレーションが降りて来なかった。
継続してインスピレーションをキャッチできない。
継続してキャッチする方法・感覚を知らないのだ。
何かのきっかけで1回だけ幸運にも降りてきた。キャッチできた。

それでは何回もヒットを出せる人はだうしてゐるのだらう?
何が違ふのか?
わかればみんなヒットを出してゐる(笑)。
さういふ人は天才といはれる人なのだらうが。
汲めどもつきないインスピレーションの泉につながってゐる。
どんどん溢れかえってゐるのかもしれない。

何かに焦点を当ててゐる?
聴くことに。
聴こえない音を聴くことによって聴こえてくるもの。
それが創造の泉か。
非二元の超越者のしじまの空間。

氣が狂ふ主体は誰か?

氣が狂ふとき、誰が狂ってゐるのか?
氣が狂ひさうと思ふとき、誰がさう思ふのか。

苦悩するとき、苦悩してゐる主体は誰か。
想念だけで、思ひの世界だけで苦悩してゐる。
それが身体に負荷(ストレス)をかけ、筋肉に抑圧したエネルギーが溜まる。

想念の主がいなくなれば、苦悩することも気が狂ふこともない。
ストレスもなく、抑圧したエネルギーが筋肉に溜まることもない。
身体は、リラックス状態だ。

文筆の星

つづけざまに書く。
ブログ的には一日一つがいいらしいが、氣にしない。

先日、算命学(四柱推命のうちの年月日で占うもの)を勉強してゐる人から見てもらったら、文筆の星があると言はれた。それも天中殺が入ってゐるので、変な文筆で成功すると(笑)。

スタピで読むとき「発行人愚言録」から先に読む人がゐるらしい。(何人からか聞いた。笑)

変な文筆でやるしかないか(笑)。