声掛け運動?

よく駅のポスターやアナウンスで「困ってゐる人に声を掛けましょう」と呼び掛けてゐる。
(駅以外でもやってゐるのかもしれない)

これは誰が呼び掛けてゐるのか? 国の行政機関?

だうして呼び掛けるやうになったのか? (誰かor何かのさしがね?)

駅の従業員だけでは対応できず、みんなの手を借りたいから? みんなの親切心を頼りたいから?

本来なら、そんな呼び掛けがなくても助けるのが人の何とか。

韓国人やアメリカ人なら、変な声掛け運動なんかなくても助ける。

日本人は、恥ずかしがり?なので、困ってゐる人がゐても見て見ぬふり。
まわりの目を気にする。助けたいと内心思ってゐても助けられない。

それで、上?からの声掛け運動?

でも何か変。

何なのかな、この国民性は。

(海外講師のワークショップでもそれは如実に出る)

覚醒のエネルギーと性エネルギーは同一

グルジェフは、高次感情センターと性センターは同じ水素の数、つまり同じエネルギーで働くと言った。高次感情センターは覚醒を司る。つまり覚醒のエネルギーと性エネルギーは同じものなのだ。
これは、体感的(感覚的)にもわかることのやうに思へる。これは肉体的な行為とは何の関係もない。意識エネルギーのことだ。意識エネルギーが性エネルギーでもあるのだ。
(これは非二元的なエネルギーだからだらうか?)

グルジェフは、性エネルギーが純粋に働いたらすごいことになる、と言ったが、それは性エネルギーは覚醒レベルで働くからだ。

ただ、性エネルギーは反面、想いや事物に自己同一化しやすく、「眠り」のエネルギーにもなってしまふ。
またしてもグルジェフだが、性エネルギーは「誤用」されやすい、と。それは「無用な熱狂」として現れると言ふ。スポーツなどは性エネルギーの誤用の典型だ。サッカーなど「無用な熱狂」そのもの。

キリストを着る

自分は悟れないとすれば、そして眠りのまま生きないとすれば、だうなのか。
悟り=超越者=神=キリストをあてにして生きることになる。
自己と悟りは違ひ、悟りは外在でも内在でもなく、自他を超えたところにある。悟り=神。
縦軸。垂直。
自己は、神(悟り)をあてにして(あてにしてゐることを自覚して)生きる。
キリストを着て生きる。

多くのスピリチュアルの人は「自己」表現をしたいだけ

多くのスピリチュアルの人は「自己」表現をしたいだけのやうに見える。
表現をしたいといふのは人間の欲求としてあるが、「自己」表現となると何か微妙な様相を呈してくる。

「表現」といふのは本来、自己を滅することなのではないか。表現に徹するといふか。
表現に徹することによって、何かが顕れるといふか。

たとへば、
祈り – ラ・フォリア Corelli (袴田美穂さん演奏)

悟りにおいて、「自己」が必要ないやうに。

「何か」といふのは垂直のものか。

「悟る必要がない」といふのは楽だ(笑)。

悟る「人」はゐない。つまり誰でも悟れない。悟る必要がないのだ。
われわれは手足と頭と感情であればよいだけ。
それを徹底するだけ。
あとは「何ものか」が運行する。
空(くう)でもいいし、広大さでもいいし、造物主でも、神でも名前は何でもいい。

心(マインド)は、心として機能していいし、それだけだ。

「目覚めるため(覚醒するため)の情報を提供する」といふ会社の理念も、それを伝へることなのか。

ノーセルフとノーマインドは違ふ

ノーセルフ(無我・無自己)とノーマインド(無心)は似てゐるやうで違ふ。

11月に刊行予定の『無限との衝突』の著者のスザンヌ・シガールさんは、突然、自己が抜け落ちてしまって、それ以来自己がないまま生きてきたといふ(40歳代で脳腫瘍でなくなられましたが)。
自己が抜け落ちた人で他にもバーナーデッド・ロバーツがゐる。『無我の体験』の著者だ。

道元禅師も落ちたのかもしれないけれど。「心身脱落」といふ言葉を残してゐるので。

「菜穂はゐない」とふ名セリフを言はれた大和田菜穂さんも自己が落ちたのかな(笑)。

スザンヌ・シガールさんは、その本の中で「無我・無自己であっても心は働く。恐怖心も持つ」と伝へてゐる。

思考(マインド)はあってもいいのだ。
ただ、主体はゐなくて思考や感情だけが動いてゐる。機械のやうに。

「だうでもいい」「だうしたらよいかわからない」といふ思考や感情もただの働きだ。
主体(自己)はゐない。

だから道元も「只管打坐(しかんたざ)」ただ坐ると言った。主体がゐないで坐るのだ。

修行する主体はゐない。「只管打坐」は本来修行ではないが今の曹洞宗では修行になってゐて矛盾してゐる。
修行は、いろいろなメソッドは、エゴ(マインド)の働きで、それ自体エゴを超えられない。誰も悟れない。悟った「人」はゐない。

思考や感情に自己同一化したとき、エゴ(自己)が生じる。

 

けふの音楽は、ジャスムヒーンさんが紹介してゐたYellowBrickCinema
どれを選んでもいいと思ふ。そのときの気持ちで。

「だうでもいい」といふ思ひの意識

「まう、だうでもいい」「だうしていいかわからない」といふ(苦悩の)思ひの意識が問題を作り出してゐる。

その思ひがなければ、「だいでもよい」「だうしていいかわからない」といふ思ひが消えてしまふ。

さういふ思ひが消えてしまへば。

だうしたらその思ひが消えるのか。

そのこと自体の気づきが、消へてしまう一歩か。

その思ひが消えてしまへば、すべては解決してしまふ。

 

けふの音楽。モーツアルトのフルートとハープの曲。安らぎの曲

着実にしかできない・・・

某ヒカルランドさんは、よくわからないけれど「白い帽子」のカタカナ名の本で話題になってゐるけれど(笑)、うちは何の話題性もなく地味に着実にしか本を出せない。すぐにパッと売れる本を出す力量もない。
(石井社長、がんばってゐるね!)

長く売れる本は出せるけれど、長く売れるようになるまで持てるかどうか・・・

上方への落下』は今年出した本の中でも内容的にとてもいい本なのだが、売れ行きも評価も評判もイマイチだ。ロングで売れるまで持ってくれるのだらうか。
この本の良さをわかってくれる日本人は少ない。超がっかり。
日本人の低レベルさよ。

日本人の精神性が高いなんてウソだ。僕は信じてゐない。
外人も高くはないのかもしれないが。人数的のは外人のほうが精神性が高い人が多いのかな。

日本人の精神性を伝えてゐる『日本の神々と天皇家のルーツと役割』も今月末に出させていただく予定だが(苦)。一部の人にとっては日本人の精神性はよくて海外に伝へたいようだが。
その辺が自分にはまだよく理解できてゐない。

 

日本人は深まりがないのかな。
深まりがない分、高まりもない。

 

けふの1曲、韓国のチェロの曲。「10月のある素敵な日に」(元曲 シークレットガーデン〈ロルフ・ラヴランド作曲〉「Serenade to Spring」)
そんなに深い感じもしないけれど、ある程度深くてちょっと軽い、いい感じの曲。ちょっと至福。

どうでもいい

けふは、大和田菜穂さんとのYoutubeのスタピ・チャンネルの「今井の宇宙室」の収録日でした(笑)。

そこで、自分が常日ごろ感じてゐる「すべてはだうでもいい」といふことを聞いてみました。

すると、菜穂さんは、すべてはだうでもいいとは思ってゐないといふことでした。

「だうでもいい」とは相対的な概念で、二元的なものだといふことでした。

 

これ以上は酔ってゐてアウト。

聖霊の導き

スタピ・オンラインで来週あたり掲載予定のアラン・コーエンさんの記事に下記の文章がありました。
(先走りで紹介してすみません! もしよければ掲載されたら読んでみてください)


「奇跡のコース」は私たちに対し、“自分の知性にのみ頼っていては、健全な決断はできない”と明確に言っています。
「奇跡のコース」は、
「今すぐに自らの教師を辞することです」。
「あなたは、奇跡へと導く自分自身のガイドにはなれません。なぜなら、ガイドを必要としたのは他ならぬ、あなたなのですから」。

いつもコントロールしようとするエゴに頼るのではなく、スピリットからのガイダンスを求めるのです。

今まで自分は、自分の考へ・思ひで決めたつもりになって生きてきた。自分の思ひが実現することを望み、それが叶はないと挫折し、それで勝手に苦しんでゐた。(カードや霊能者にも聞いたりはしてゐるが、苦)
これからは、手放して、スピリット(聖霊)からのガイダンス(導き)に頼ってみようかな。

今月出す『無力の道』『スピリットに目覚める』ともシンクロしてゐる。

覚醒して生きるといふのもさういふことなのだと思ふ。
(自分が抜け落ちて生きること)

「聖霊の導き」に関しては、ヤスパースも『哲学入門』で「神の導きで生きる」と書かれてゐたやうな。

 

今回の記事は宣伝めいてゐるな(笑)。
そのつもりはなかったのだが。