ノーセルフとノーマインドは違ふ

ノーセルフ(無我・無自己)とノーマインド(無心)は似てゐるやうで違ふ。

11月に刊行予定の『無限との衝突』の著者のスザンヌ・シガールさんは、突然、自己が抜け落ちてしまって、それ以来自己がないまま生きてきたといふ(40歳代で脳腫瘍でなくなられましたが)。
自己が抜け落ちた人で他にもバーナーデッド・ロバーツがゐる。『無我の体験』の著者だ。

道元禅師も落ちたのかもしれないけれど。「心身脱落」といふ言葉を残してゐるので。

「菜穂はゐない」とふ名セリフを言はれた大和田菜穂さんも自己が落ちたのかな(笑)。

スザンヌ・シガールさんは、その本の中で「無我・無自己であっても心は働く。恐怖心も持つ」と伝へてゐる。

思考(マインド)はあってもいいのだ。
ただ、主体はゐなくて思考や感情だけが動いてゐる。機械のやうに。

「だうでもいい」「だうしたらよいかわからない」といふ思考や感情もただの働きだ。
主体(自己)はゐない。

だから道元も「只管打坐(しかんたざ)」ただ坐ると言った。主体がゐないで坐るのだ。

修行する主体はゐない。「只管打坐」は本来修行ではないが今の曹洞宗では修行になってゐて矛盾してゐる。
修行は、いろいろなメソッドは、エゴ(マインド)の働きで、それ自体エゴを超えられない。誰も悟れない。悟った「人」はゐない。

思考や感情に自己同一化したとき、エゴ(自己)が生じる。

 

けふの音楽は、ジャスムヒーンさんが紹介してゐたYellowBrickCinema
どれを選んでもいいと思ふ。そのときの気持ちで。