本を出したい人

スピに限らずだと思ふが、本を出したい人たちがゐる。

さういふ人たちは熱心で、どんどん言い寄ってくる(笑)。

(こちらが断ると手のひらを返すやうな反応をしたりもする。みんなではないが)

私としては、普遍的なもので、後の世まで残るやうな本を出していきたい。

著者のエゴを満足するやうな本は出したくない。
なんの意味もない。

翻弄されたくない。

スピリチュアル・ビジネス?

スピリチュアルをビジネスにしている人たちがゐる。
と、かう書くと自分もそれに該当してしまふ。

違ふ表現をすると、
スピリチュアルをビジネス(金儲け)と見てビジネスしている人たちがゐる。
最初にお金がくる人たち。

(それとは違って、スピリチュアルを自己(エゴ)実現の手段としてゐる人たちもゐる。
引き寄せの法則等を使って。ここでは話がそれるのでこの話はこれ以上書かない。)

自分も、この業界でやっていけるかなと思ひつつやり続けてゐるが、
金儲けでやってゐるのだらうか?
お金がたくさん入ってくるにこしたことはないが、
金儲けの手段としてスピリチュアルを扱ひたくない。

スピリチュアルとはお金とは本来関係ないものだ(と思ふ)。

理想とするところのものの追求や伝へること。
崇高なるものを大事と思ふこと。
自分は下卑たものであっても。

赤の本が多い

今月の新刊は赤の本が多い。
何が起きても、それを愛する』『分離なきものの愛のうた』のカバーは赤い。
それから、月末に出す予定の復刊『エマヌエルの書』もやや赤い。
7月頭に出す『子育てママの四柱推命』も赤がメインだ。

6月(7月4日まで)は午月で、午は火の五行で赤を表してゐる。

今回出す本は、月の五行に合致してゐるのだ(笑)。

だうしたら

こんど出す新刊『分離なきものの愛のうた』はamazonの予約の段階でそんなにランクインしてゐない(苦)。

非二元(ノンデュアリティ)の本をこれまで出してきたし、これからも出していく予定。
それから、今後はチベット仏教、ボン教のゾクチェン(非二元で虹の身体を作っていく)の本も出す予定だし、中国の仙道(白日昇天=アセンション)の本も出していきたいと思ってゐる。

変な表現だが、ライフワークとしてそれらを人々に傳へていきたい。
基本は意識の目覚め(覚醒)だが、認識(意識)の変容と存在の変容と。

商売もしつつ(笑)、それらを並立させなくては。

ライフワークは、さういふことだが、自分自身が何もできないやうではだうしやうもないので、
自己修練もしていけたらと思ってゐる。
でも、年取って、さうとう耄碌してゐるので、どちらも難しいか(苦)。

だうしたら、みんなに傳はるのかな。

また、忙しさを脱出して己の道を行けるのかな。

電話は超苦手

会社に自分宛に電話が掛かってくることがある。
ほとんど会社にゐないので、電話を受けた人は今ゐません、と応えてくれるが、たまに折り返しを要求される方がゐる。
折り返しを要求されても、こちらは電話が苦手なのでできない(苦)。
担当者に(メールで)用件をお願いしますと伝えてもらう。

携帯に掛かってくる電話にも出ない。
留守電が入ってゐた場合、内容によって渋々掛け直す(苦)。

電話で話を聞いても頭に入らないし、だんだん聞いているうちに氣が遠くなるか、
要望(要求、なんくせ)が多くなってくると頭の容量が切れて(頭にきて)、携帯を何個壊してしまったことか。

電話以外にも人と話すのが苦手。

明かりが灯った人

イエス・キリストの使徒たちやフランチェスコなどは、絵などで頭に光のオーラが描かれてゐるが、実際にその人達に会ったら光が灯ってゐて輝いてゐるやうに見えるのだらうな。
聖なる光が宿ったといふか。

英語でエンライトメント(Enlightenment)といふ表現があるが、光が灯された、光明を得た、といふところから「悟り」とも訳される。

では、「悟り」のメッカ、仏教では、悟った人は明かりが灯っているのだらうか?
光輝いてゐるだらうか。
あまりさういふイメージがない。
なぜか?

神道では、清く明るい心を尊ぶ。
そのやうな人も明かりが灯った人なのかな。

メッカのメッカ、イスラム教ではだうか?
イスラム教、特にスーフィーでは「照明体験」といふことが言はれる。
自分が光るといふより、超越的なものから光が照射される体験。
でも、ルーミーあたりは光が灯っていたようなイメージがある。

神に酔いしれる人に、明かりが灯るのだらうか。

神からライターかマッチでろうそくに火を灯されるやうに、人は輝くのだらうか。

ルーミーもフランチェスコも旋廻する。

自己を超越した何か明け渡し、その超越した何かによって生きてゐる人。
その人を通して、超越した何かが感じられる。

愛の道

不愉快なことがあると、「不快感を表現しない」といふことがなかなかできない。
それに「自己同一化」し「内的考慮」(ああだかうだとじくじく考えること)をしてしまふ。

「内的考慮」をしないためには、「愛の道」をいく必要がある。
「愛の道」をいけば、愛に徹してゐれば「内的考慮」をしないですむ。
相手の氣持ちを慮り、思ひやりをもち、「外的考慮」もできる。
「愛の道」を行けば、自己が落ちる。
覚醒の空間がひろがる。

記憶と不快感

今日も嫌なことがあった。
(開運行為を昨日行ったが、全然効果がなかったか、好転反応か)
その記憶で不愉快な気持ちが続いてしまった。

不快感の表現をしない訓練をするにはいい機会ではある(苦笑)。
さういふ意味では感謝だ(苦)。

よく禅僧の話で、弟子が何かの記憶(食べ物等)にひきづられてゐて、
それを禅僧が諫める話があるが、自分も記憶にひきづられてしまふ。
だうでもいいと思へればいいのだが、記憶がよみがえってきてどうしようもなくなる。
それでも不快感の表現はしないやうにしようと思ふ(苦)。
禅僧は記憶を超越してゐるのか、忘れてしまふのか。感じないのか。

不快感を表現しない訓練中が、グルジェフのいふ「人間第4番」の状態だ。
不快感を表現しない禅僧は「人間第5番」だ。

早く渡りきりたい。

不快感を表現してきた人生が長いな・・・

不快感を表現しないこと

グルジェフの第二のショック「不快感を表現しないこと」は、自己(エゴ、自我)がないときに実現できる。
自分があると、何かあったときに不快に感じてしまふ。
自分がないと、何を言はれても不快に感じない。

グルジェフの第二のショックは、無我(ノーエゴ)の訓練(道)である。

自己想起をし、その次に無我。

内的進化の道

グルジェフは内的な進化の道として、最初に「自己想起」(見てゐる自分を見ること)を説く。
これが、第一番目の意識的なショックだ。
そして次の第二番目の意識的なショックとして、感情に働きかける、「不快感を表現しないこと」
「自己同一化、内的考慮をしないこと」を説く。
この二番目のショックがない限り、高次感情センター(もそれに続く高次思考センター)は機能せず、
内的進化も起らない。

自分の場合、不快感を表現しなくりだ。全然、二番目のショックができていない。
これからは、その辺を取り組むのが自分の「ワーク」なのかな。