イエスは祈り、ブッダは祈らなかった?

聖書や仏典を見ると、イエスは祈り、ブッダは祈ってゐない。
なぜ、イエスは祈り、ブッダは祈らなかったのか。

いろいろなものに挑戦しないといけないとき、課題や艱難があるとき、そして不安があるとき、
祈りは必要なやうに思ふ。心の安定のために。

イエスは、使命?を達成するために、祈らざるをえなかったのかな。
命をとした役割を全うするために。
神と自分との語らひの時間が必要だった。それは言葉なきコミュニケーション。

ブッダには、そのやうな課題はなかったのかもしれない。
安らぎの境地にゐればよかったのかもしれない。
梵天から、みんなに悟りのことを教ヘるように、と請はれて教へるやうになったが、
使命感といふほどでもなかったのかもしれない。

祈りには個人性がある。
個人性のない人に祈りはない(いらない)。

祈りには個人性があるが、個人を超えた要素もある。
超越と個とのせめぎあひの中で成り立つ。
非二元と二元との間で成り立つもの。

One thought on “イエスは祈り、ブッダは祈らなかった?”

  1. う~ん、深いテーマですね。
    一つには、「祈り」には特定の「目標」がある。
    それに対し、ブッダは、特定の現世利益を嫌った。
    イエスの「祈り」は、我々が神社でする「お願い」
    ではなくて、主(神)との対話だったのではないか。

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