今日発売のダリル・ベイリーの『ファンタジーの終焉』は、面白い記述をしてゐる。
な~んて、酔いながら書いてゐるが(笑)。
覚醒・悟りは、「動きそのもの」を感得することだと言ってゐる。
パンだったり、指1本だったり、禅で示してゐるのは、対象のそれ(二元のそれ)ではなく、そのもの自身の「動きそのもの」を指してゐる。
覚醒・悟りの書ではよく、対象と対象を認識する主体とそれ自身が一体となってゐることを認識することを言ふ。
主客それ以前のそれ自身の認識・・・
動きそれ自身が展開する。
音それ自身が響く。
今日発売のダリル・ベイリーの『ファンタジーの終焉』は、面白い記述をしてゐる。
な~んて、酔いながら書いてゐるが(笑)。
覚醒・悟りは、「動きそのもの」を感得することだと言ってゐる。
パンだったり、指1本だったり、禅で示してゐるのは、対象のそれ(二元のそれ)ではなく、そのもの自身の「動きそのもの」を指してゐる。
覚醒・悟りの書ではよく、対象と対象を認識する主体とそれ自身が一体となってゐることを認識することを言ふ。
主客それ以前のそれ自身の認識・・・
動きそれ自身が展開する。
音それ自身が響く。
引き寄せ難民と言はれてから久しい(のかな)。
今は、ノンデュアリティ難民があふれてゐる。
ノンデュアリティは、理解できない人には理解できない。
一線がある。
ノンデュアリティが広まりつつある。と同時に、難民も多く出てゐる。
まわりの人たちは、一応に理解できないと言ふ。
そのもどかしさに怒りもおぼえてゐるやうだ。
引き寄せの法則とその難民たちは、想念の世界で悶々としてゐるだけだが、
ノンデュアリティ難民は、想念を超える世界を超えられないで悶々としてゐる。
今、ノンデュアリティ難民を救ふべく(苦笑)、いくつか本を企画してゐる。
一線を超えられるか。
おかげさまでジャスムヒーンさんのワークショップは大盛況で終わった。
それのバランスをとるかのやうに、マイナスの出来事もいろいろ発生する(笑)。
パソコンが壊れたり、本の装丁がスムーズにいかなかったり、本の編集が思うようにいかなかったり。
プラスもあればマイナスもある(苦)。
またはネガティブ・エネルギーの影響を受けてゐるのか(笑)。
それであればはじかないとだが。
弊社で刊行している覚醒ブックスは、覚醒・悟りについて書かれた本だが、覚醒・悟りとは、この世界(時空)を超えた意識(になること)であり、つまり、この三次元・四次元から五次元に移行すること、つまりアセンション(次元上昇)である。
覚醒してゐる人が増えてゐるといふことは、全体としてのアセンションが始まってゐるといふことである。
現在は、五次元意識・世界で生きてゐる人(まだ少数?)と三次元意識・世界で生きてゐる人が共存してゐる。同じところにゐるが分かれてゐる。
覚醒ブックスは、アセンションを手伝ってゐる本(笑)。
よく覚者が、指を1本立てたり、扇子や手でパンパン鳴らして、これが悟りだみたいなことを言ふ(笑)。
それは、それ自体が「そこ」在る。対象でないそれ自体の認識。
自己知(直接知)において、明らかになる。
自己知においては、対象なき自己が明らかになり、同時にそれ(世界・ここのもの)自体がそれ自体として明らかになる。
指が指自体であり、自己知のうちにある。
パンパンが、自己知のうちでそれ自体が鳴る。
言い訳的なタイトルだ(笑)。
足利義政が政治そっちのけで銀閣寺を作り、いろいろな文化的なことにほうけて、それが今日の日本文化の礎を築いた。その礎のもとに文化人や芸術家が輩出した。
ルネッサンスにしてもメヂチ家が金を出して文化が花ひらいた。
本来、政府なり財閥が金を出して、文化が花をひらく。
鎌倉仏教が鎌倉幕府の元で花ひらいたように、現代においてそれに相当するのはニューエイジ思想であり、覚醒(非二元)の生き方だ。政府や財閥がニューエイジをもっと応援すべきなのだ(大笑)。
彼らはそんなことはしない。逆の意味でのうつけものだ。もうからないものには手を出さない。
俺は、お金は全然無いけれど、覚醒文化のためになんとかしたい。
お金があれば足利義政にあやかりたいものだ。
なくてもなんとかしなくてはならないのかもしれないが。
大言壮語を言ってもしょうがないが。
ほとんど一人の探索であり、誰に対して伝へてゐるわけでもく、わけもわからないことを書いてゐるだけではあるが、、、
対象を持たない知(非二元の知=悟り)は、直接知であり、直接知は自己知以外にはない。
直接知は、世界が世界を照らす知だ。
覚醒「体験」や一瞥「体験」は、悟りではないといふ。
悟りは「体験」ではないと。
体験になった段階で、記憶のひとつになり、本来の自己(真我)ではなくなる。
体験になる一歩前の段階が、悟り?
「それ」と対象化して認識した瞬間に、自己と「それ」との二極(二元)が生じる。
「これ」「ここ」と言っても同じ。対象化してゐる。
対象化しない「ここ」。絶対的な「ここ」。どこもかしこも「ここ」。
主観だけしかない認識。すべてが、個人でない自己。世界と自己との同一性。
先日、また別の悟った方にお会ひした。
その方は、「パンパン」といふ音に真実があって、その事実を自覚するのが悟りだと言はれてゐた。
その音を対象として認識するのではない、とのことだった。
対象化しない知といふのはだういふことか。
それを「即」と表現されてゐた。
覚醒しても、覚的世界を対象として認識してしまえば、まだ対象として見てゐる自己が残ってゐることになる。
プレゼンスを認識しても、プレゼンスを対象化しては、まだ自己が残る。
超越者を認識しても、認識してゐる自己がまだある。
対象化しない知。
認識がやむとき、対象もないし自己もない。知もない。
「パン」と氣づいたら「パン」だった・・・
自己もなく。
この方は、悟りを維持することも、戻ることも、深まることもない。大悟も小悟もないと言はれてゐた。