覚醒(真我の自覚)と霊的なこと

ラマナ・マハルシやバーソロミューが伝へてゐる覚醒(真我の自覚)が真実で、それ以外真実はない。
(3月に『バーソロミューとの旅(上)日本編』を復刊で出します)

そのやうな、覚醒・悟り・非二元といふ真実を伝へることと、
もう一つ、覚醒ではなく相対世界のことではあるが霊的世界やエネルギーのことを
伝へることが、ナチュラルスピリットの役割かな。

さらには、こちらも相対世界のことではあるが、陰陽五行や占い的なこと、
科学とは違う説明もこの世ではできるといふことを伝へるのが太玄社の役割かな。

霊的世界やエネルギーのことは、まだまだ未知のことが多い。
霊能者や能力者に頼るところが大きい。

今のスピリチュアル状況

今のスピリチュアル状況はパッとしてゐないやうに見える。
これといったものがない。
ほぼ出尽くしたからか。

スピリチュアル初心者には、いろいろ目新しいものがあると思ふが。

知識としてはだいたい出尽くしてきたが(真理に新しいものナシとも言はれるが)、
精神性が高かったり、能力が優れたりといふ人もあまりゐないのかな。

スピリチュアルが普及し過ぎて一般化して、そういふ特化した人は目立たなくなったか。

コロナやウクライナで、スピリチュアルが弱まったか。
陰謀論が一時期流行ったが、今は落ち着いてゐるやうに見える。

磁石化

常時覚醒してゐる人はともかく、常時覚醒してゐない人にとって、磁石の針のように常に覚醒に向くように仕向ける癖(条件反射)が必要だ。
何かの折に、すぎに覚醒の方向に向き直る。
普段、事物に自己同一化して、眠りに陥り埋没化しているが、パッと切り返しができる磁石(コンパス)の状態になってゐると覚醒に向かえる。

磁石化してゐない鉄が、磁石にずっとくっついてゐると鉄が磁石化するやうに、
人間も覚醒の何かにくっついている時間が長いと、覚醒に向かう磁石になるのかな。

さういへば、グルジェフはマグティック・センターと言ってゐた。

覚醒のためには外より内

超越者=内在神=真我であり、同一のものを指すが、
超越者といふと、外部にあるやうなイメージになってしまふ。
外のその向こう側ではあるのだが。
それよりも世界と自己の内在として見たはうが、それを保持しやすいやうに感じる。
真我としてみたほうがより保持しやすい。
「真我を感じる」といふマントラ(アファーメーション)がいいやうだ。

人によって覚醒を呼び込むものは違ふと思ふし、
パウロの「キリストを着る」でもいい。

覚醒してゐる人は、さういふ呼び込むものは必要ないと思ふが。

真我と自分は違ふもの。

スポーツと小説(芸術)の違ひ

スポーツは、対象に自己同一化して眠りに落とす覚醒とは真逆のもの。
グルジェフは無用な熱狂を伴ふと言った。

小説も物語の世界に没入させて、スポーツと同じやうに眠りに導くのか。
小説も芸術であるならば、眠りとは反対に覚醒に導くもののやうにも思ふのだが、
スポーツと小説の違ひは何なのだらう。

小説(劇)はカタルシスをもたらす、とアリストテレスは言ふ。

小説は内部運動で、内部の何かを動かし、それを昇華へと向かはせるのか。
内部の何かとは感情か。情念か。
小説のあの読後感とは何なのか。呆然とするものとは。

ゆるしが覚醒への第二のショック?

グルジェフは覚醒していくためには第一のショックである「自己想起」(主客の同時認識)以外に、「不快感を表現しない」という第二のショックがないと先に進まないと語ってゐる(『奇跡を求めて』で)。

「不快感を表現しない」といふのは、前回書いた「ゆるしによって怒りが消える」といふことに通じる。
「ゆるし」が第二のショックなのだ。

「自己想起」以外に「ゆるし」を行わないと覚醒が定着しないのだ。

覚醒の書である『奇跡のコース』で「ゆるし」を説くのも、さういふのに関連してゐるのかな。