最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり

パウロの言葉に「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」といふのがある(ガラテヤ2・20)。

これは『よひとやむみな』のエゴを捨て内なる神が生きるようにする、と同じ意味。
うちに神があって、それが働くようにする。エゴはそれに仕え、邪魔しないやうにする。
「身魂磨き」とはこれのこと。

オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』では、練習中のヘリゲルがいい動きをしたときに師がそこに仏陀を見、お辞儀をするシーンがある。
これも、うちなる仏陀・キリスト・神が働いたものだらう。

神が宿る、ともいふ。
入神。神が入ってゐる。

覚醒(一瞥)によって、外なる神を見出し、やがてエゴが抜け落ちていくと内に神を見出す。
バーナデット・ロバーツの『無自己の体験』『自己とは何か』で、その流れがわかる。

自分は全然、神が生ききれてゐない。

 

けふの1曲:Arvo Pärt: Für Anna Maria

満たされない自己

「満たされない自己」が満たされようと欲し欲し欲しまくる。
代替として食べ物で、酒で満たそうとする。
食べて食べて、呑んで呑んで呑みまくる。
酔ひつぶれる。
感覚が麻痺する。

「満たされない自己」とは何か?
通常の「自己」と同じものなのか。
周辺の思念体なのか。

台風の目の中心には「満たされない自己」はないのか。

「満たされない自己」を客観視すれば消えるのか。

世界の諸問題の根源は「満たされない自己」だ。

 

けふの1曲はヴィターリのシャコンヌ(たびたび登場するが)
ヴァイオリンはDaniel Auner、パイプオルガンはHannfried Lucke

考察 『自己とは何か』『よひとやむみな』との関連性

自己について、覚醒について、
自己とは何か』と『よひとやむみな』とノンデュアリティを比較・関連させながら考察してみたい。

エゴ(自我)のときは、思考・思念で意識が充満しそれらに自己同一化してゐる。
雲がもくもく状態で、いわゆる「眠り」の状態だ。

そこから思考・思念に対する自己同一化をやめると、台風の目のように思念はまわりにあるが、中心は目覚めた(覚醒した)状態になる。バーナデット・ロバーツは、その中心を「聖なるもの」(神性)と呼んでゐる。『よひとやむみな』では意識の中心に神が宿ると言ってゐる。
「身魂磨き」とは「覚醒」のことでもある。

バーナデット・ロバーツは、その周辺の思考(自己)を脱落した体験をする。すると中心(神)もなくなり、「虚無の中の虚無(void of voids)」になるといふ。それはそうとうキツイらしい。どこにも救ひはない。自己も神もない。
そこにキリストは現れ、道として示されるといふ。「わたしは道であり、真理であり、生命である」と。
(キリストは、人間が辿る道を逆に人間まで降りてきたのだといふ)

「身魂磨き」の究極もそこにいくのか。

当面、「身魂磨き」=「覚醒」は自分の課題であり、世の中の課題でもある。
その意味では、『魂の実践』も参考になる。

 

けふの1曲、ロシアのヴァイオリニストGalina Barinova演奏の、タルティーニのSonata for Violin and Basso Continuo in G Minor, Op. 1, No. 10 “Didone abbandonataa”

脱炭素社会の対策?

脱炭素社会の対策として、火力や石炭の化石燃料の消費を抑えることが提言されてゐるが、植物を増やせば二酸化炭素を減らせる。なぜ、それを各国や識者は言はないのだらうか。
どんどん木を植え、植物を増やしていけばいいのではないのだらうか。

もちろん自然エネルギーを使ふのはいいと思ふが、片手落ちだ。

エゴによって二酸化炭素を増やし、それを減らそうとする動きもエゴ。
エゴの上塗り。

太陽光発電を砂漠にみっちり敷くのは不自然。

自然を回復していく方向に行くのがいい方向ではなからうか。

95%~97%物事はうまくいかない法則?

前にも書いたかもしれないが、
自分の場合、95%~97%、物事はうまくいかない。
これでもかといふほどうまくいかない。
法則性でもあるのか。

うまくいかないことの連続なので、心もへこむ。

諦めればいいのだらうが、うまくいかないといふこと自体に苦痛といふ要素が含まれる。

「何々すればうまくいく」といふやうな本がたくさん出てゐるが、自分にとっては嘘に見える。

休息が必要だ。

夢も希望もない。

神があればいいのだらうけれど、今のところ、その感覚がわかない。
それほど疲れ切ってゐるのか。ストレスで押しつぶされてゐるのか。

神が宿るとは

芸術作品の中には神が宿ってゐると感じられる演奏や作品がある。

これといふのは何なのだらう?

なぜ神を感じるのだらう。

人にも神を宿った人を感じるときがある。

常時、宿ってゐる人と、そのときだけ宿ってゐる人と。

 

それとは別のことだが、一期一会とは何なのかな。
そのときにしか会はないのに妙に気に留めてしまふ。
まう会ふことはないと思ふと貴重にも思ふ。何かの縁があったのかと。

 

世界の妙(たへ)なるもの

『奇跡のコース』の財団の創業者のジュディスさんが他界された

奇跡のコース』の版元の内なる平和財団の創業者のジュディス・スカッチ・ウィットソンさんが他界された。
90歳とのこと。

10数年前にカルフォルニアのマリン・シティーでご主人とこちらの取材スタッフとでレストランで一緒に食事をし、ご自宅にも招かれた。
とてもいい人だった。素敵な人だった。

『奇跡のコース』を裏から支え、土台となり、世界に広められた。
すごい功労者。

英語の記事はこちら