救はれたいと思って、救はれない人生

投稿がご無沙汰です。

人生とは、救はれたいと思って救はれないものなのかな、と。

必死に救はれたいと思って救はれない。

嗚呼。

(それによって神を認識し、覚醒するのか・・・)

飲みすぎて、内蔵もやられてゐるといふこともあるが(苦笑)。

 

それとは別の話で、、、

今、霊能者と著者の方とで日本の神様や高次の霊界について現地に行って
取材してゐるところだが、なかなか今の一般の人たちの思ってゐる世界と違ふことが明らかになってきてゐる。
何かが明らかにな・・・
明らかにしたい、と思ふ。

それによって人々の認識が変はり、対し方や生き方が変はり、世界観が変はると思ふ。

何かが変はる。

大きいことが。

(人々の知らないことが明らかになると思ふが、さう思ふのは個人的に思ふだけなのかもしれないが・・・)

内なる覚醒の道、神の道

よひとやむみな』では、心の中の台風の目に意識を持っていくことを勧める(それが身魂磨き)。
台風のまわりの暴風域は二元のああだかうだといふ意識であり、台風の目はそれを超えた意識。
そこに神の氣が入る(通る)といふ。
また内に神を祀れといふ。これは台風の目の中心に神を祀ることである。
内に神が在って、その神が働くように生きるのが「神の道」。

外なる覚醒(一瞥)は、超越者を外に見出すが、内なる覚醒は、超越者を内在者として感じる覚醒であり、自分の内なる超越者(内在神)は同時に外の内部の内在神としても感じる覚醒である。

内なる覚醒の道が、神の道である。

これは、バーナデット・ロバーツに通じる。

大切な何かを失ってゐる

自分は、われわれは、大切な何かを失ってゐる状態だ。

たとへば、国民唱歌で歌はれてゐる世界は今のわれわれにはない。
このYoutubeの韓国のユニットが歌ってゐるやうな世界

上記には入ってゐないが、星の界冬の星座

パソコン・携帯世代になって、自然とのつながりを失ってしまった。
本居宣長流に言へば「もののあはれ」を失った。
語彙の豊かさも失った。

一瞥(覚醒)は、愛の過程の自然現象

一瞥(覚醒)は、愛の過程の自然現象かなと思ふ。

愛=無我となって相手に対するときに、どこかの過程で一瞥といふ現象が起るのかなと。

主客を超えた意識になり、神(超越者)を認識するようになる。

覚醒を求めるのと、愛を追求するのと、自己を極めるのと。

身魂磨きとは、愛の実践でもあるのだと思ふ。

 

けふの1曲
バッハのシャコンヌ 五嶋みどりさんの演奏で。

心のわかちあひ?

心のわかちあひが、喜びのやうに感じられるが、でもそれがエゴや願望のわかちあひなら何の興味もない。
心をわかちあふって何をわかちあふのか、相手の純粋な心に対する共感なのか。
純粋な心とは何なのだらう?
何か神や愛に通じるものなのだらうか。

 

けふの1曲
ビーバーのパッサカリア(Biber Passacaglia)
いろいろな人が演奏してゐるが、今回はDmitry Sinkovskyの演奏で。

日本は学問や研究にあまり投資してゐない。

日本は、消費税を導入してから失われた30年間を生きてゐる。
その間、学問や研究機関にお金を投入せず、世界的に学問レベルが落ちてゐる。
最近よく大学のランキングの記事を見るが、日本の大学は世界の大学のレベルからすると結構下だ。
日本の政治家は何をやってゐるのだらうと思ふ。

税制や経済政策を間違い、研究にお金を使はず、文化も栄えず、低レベル国家になってゐる。

嘆いてもしょうがないが、しょうがなくても嘆く。

目覚めた人が増えると、国も変はっていくのか。

魂を癒す時代から磨く時代へ

今までの「癒し」がスピリチュアルの主流的な感じだったが、これから「魂磨き」を主流にしていきたい。
よひとやむみな』や『魂の実践』、そして1月刊行予定の『よひとやむみな 身魂磨き実践法』等、「魂磨き」の本が続々出始めてゐる。

みんな「魂磨き」をするやうになってほしい。

人間とは

ここに書いてゐるのは戯言(ざれごと)だが、
人間とは何なのだらう。

『イワンのばか』的な人もゐれば『カラマーゾフの兄弟』的な人もゐれば『桜の園』的な人もゐる。

個人的にはチェーホフ的な人間は気楽でいいかなと思ふが(注付き。時に哀愁をおびるが)、イワンには頭が下がり、ドストエフスキー的人間には閉口する(えぐられる)。
それぞれ人間を描ききってゐる。

人間は多様である。

(多様な人間の中で会社経営もしてゐかなくてはならない、苦)

 

けふの1曲。われらがロシアのヴァイオリニストGalina Barinova
バッハのSonata No. 2 for Violin and Harpsichord in A Major, BWV 1015: I. Andante