霊能者もさまざま

「私の出身の星は?」と訊いて、いろいろな霊能者から同じ星を言はれたことがない。
過去生について訊いても、同じ過去生を言はれたことがない(笑)。

神社や神社の神様についても霊能者によって言ってゐることがまちまちだ。

どれが正解なのか?(苦笑)

誰かが当たってゐて、ほかは全員間違ってゐるのか。または全員間違ってゐるのか・・・
それぞれの側面を見てゐのか。

政治家や企業家は、それぞれお抱えの霊能者がついてゐると言はれてゐる。
霊能者の言ってゐることがさまざまならば、政治家の決定や企業家の決定は
だうなるのか?(笑)

安倍晋三氏は、長く続いてゐるので有能な霊能者がついてゐるのか(笑)。

すべての人が幸せでありますやうに

何か苦しくなると「神様、ありがたうござゐます」と言ってゐたが、これもエゴイズムの表現かもしれない。自分のことしかない。

何か苦しくなったら「神様、すべての人が幸せになりますやうに」と口癖になればいい。
または、「神様、すべての人が幸せでありますやうに」。
自分の殻、枠から抜け出せる。

今まで、さんざん人を苦しめてきてゐるので、言へた義理ではないが(苦)。
まあ、偽善者のせりふだ。
偽善者の道、星の道。

これからも、人を苦しめていくのだらうな・・・(あぁ)

90年代

90年代半ばは、ニューエイジ音楽もいろいろなものが出て流行り、スピリチュアルなムーブメントでも何か精神性、霊性がアップして世の中が変はっていくのかなという期待感と高ぶりがあったやうに、ふりかえると思ふ。

今は、さういふのはないな(苦)。
「願ひが叶ふ」系の本が大半を占め、精神性どころでなくなった(笑)。
消費税導入やその他で不景気になって、食べていくために精神性どころではなくなったのかもしれない。
いつまで、そんなのが続いていくのかな。

超能力者発見

ちょっとこのブログから離れてゐたら、たくさんのコメントが入ってゐました。ありがたうございます。

東京の井の頭線の浜田山駅近くの居酒屋、新鮮組に行ったら、なんと店員で超能力の使い手がゐた。
サカモトタカキさんといふ人で、3ヶ月前にシンガーソングライターを目指して上京してきた若者だ。
トランプ・マジック(手品)も見事だったが、お店の頑丈そうな大きめのスピーンを手のひらの上で曲げてみせた。
こすったりもせず。
スプーン曲げのはうは、手品ではなく本物の超能力だと言ってゐた。お父さんも超能力を持ってゐたと言ふ。
トランプの数字当ても、手品ではなくテレパシーで当ててゐた。

タカキさんは、金土日勤務とのことで、興味ある方は行ってみることをお薦めする。
料理もおいしい。
”ゴジラの手”など、変わった食材もある。

2ちゃんねる

最近、読者の方から弊社で本を出させていただいている著者が2チャンネルで変なことを書かれてゐるので出さないで、といふメールをいただいた。
その著者は、2ちゃんねるの書き手が間違ったことを書いてゐると言ってゐた。

この僕についても2ちゃんねるで何か書かれてゐると教へてくれた。
見たことはないが、この変な人間の僕を書いてもだうしやうもないと思ふのだが。

世の中の人間、みんな変で、それを書く2ちゃんねるの人間はさらに異常だと思ふ。

人を非難しない2ちゃんねるは、有用だと思ふが。
オーデオ趣味をもつ僕も、ネットの検索で2ちゃんねるの情報が出てきて参考にはしてゐる。

ライトスピの本には、味がない。
スピ系本全般に味はないやうに思ふ。
何かを主張する本には、味がない。

味は、人間性の深みだ。

覚醒とは関係ないのかもしれないが、人間性の深み、味はいといふのは、大切なやうに思はれる。
それが文化といふものを形づくるから。

薄っぺらいものは、味気ない。

うまく、スピが文化的な深さまで行ってくれたらいいのだが。

祈りも、不安やつらさの反対表現

祈るのは、不安があり、つらいからだ。
不安を解消したいために、神様に祈る。
安心立命の境地になれば、祈る必要はなくなるのかな。
悟れば、祈ることもしなくなるのか。

イエスは、しょっちゅう祈っていたような記述が福音書にはあるが、
イエスは、不安だったのか。安心立命、悟りの境地にはなかったのか。

イエスは、絶対的な権威のような感じで言葉を発してゐたが、
自分の言動に不安はなかったのか。

僕は自分の言動に自信がない。いつも不安にさいなまれてゐる。
祈ってばかりだ。それも何の期待もなく。何も(といふことはないか)みたされないのだ。

「ありがたうございます」は、「つらさ」の反対表現

「ありがたうございます」といふのはいいと言はれてゐる。(ありがたうおじさんもゐたな)
何かあると「ありがたうございます」。
転んでも「ありがたうございます」。
いやなことがあっても「ありがたうございます」。
「ありがたうございます」の陰には、「つらさ」がある。
表面意識は「ありがたうございます」、下の意識は、「つらい、つらい」。

もう、「つらさ」の連続だ(苦笑)。「ありがたうございます」の連続か。。。

覚醒すると個人はゐなくなる。

今度出すリック・リンチツの『あなたも私もいない』(No You and No Me)は、最初から最後まで「個人がいない」といふことを語ってゐて痛快だ。とても面白い。発売を楽しみにしてゐて。発売を楽しむ「個人」もゐないのだが。楽しみそのものはある。

上記の本とは直接関係ないが、世の中には幻想で生きてゐる人が二つに分類される。
一つは、「何でもできる。何でも可能である」といふ幻想で生きてゐる人。
引き寄せ系の人がはまる幻想だ。
現実には、何でも可能ではない。100mを3秒で走れない。
二つめは、何でも可能ではないと思ってゐるが、想いの世界に浸って生きてゐる人。
大部分の人は、この分類に入る。常に何かを想って、その想ひに浸ってゐる。
リアリティを生きてゐない。
そして、それらに属せず、幻想で生きてゐない人が覚醒して生きてゐる人だ。
覚醒して生きてゐる人は、「個人」で生きてゐない。そこに「個人」はゐない。
「それ」が「それ」として生きてゐる。

宗教戦争もエゴの戦ひ

イスラム国の非道な行なひに、ムカムカする。
イスラム教をたてに、人に非道な行ひをすることはゆるされないと思ふ。
それは単なる自己の信念を通すためのエゴにすぎない。
単なる観念論の亡者だ。
「覚醒」とは真反対だ。覚醒は、観念・信念から自由になることだから。
宗教も単なる観念でしかない。
観念を押し通すと、エゴイズムになる。