“I Amness”の訳語

来月出版予定のニサルガダッタの最晩年の本『意識に先立って』(仮題)の中に出てくる”I Amness”の訳語が難しい。

訳者、編集者は「私という存在性」と訳してゐる。
原語が”I Amness”で、”I AM”(われ在り、私は在る)にnessを付けたもの。
“One”と”Oneness”、kindとkindnessみたいな関係か。
「一(一なるもの)」と「一体性」

「私という存在性」だと原語の”I AM”のニュアンスが生かせない。

「私は在る」と「私は在る」性
「私は在る」性だと変なので、「私は在るという性質」
または「私は在るというもの」「私は在るという存在」
「私は在るという存在性」

難しい。

何でもメールで済ませてしまふ

電話が超苦手で、人前で話すのも苦手で、それでメールで済ませてしまふことになる。

人事も契約(解消)のこともメールで通知する。

告げられた人は、メールで簡単に済ますのか、みたいな反応をする。複数の人からそんな反応があった。

でもメールで通知することしかできない(苦)。

スピリチュアルとは何ですか?

今日のスタピの編集会議で訊かれた。
「スピリチュアルとは何ですか?」

僕はかう答へた。(下記の説明は補足して書いてゐる、笑)

スピリチュアルには二つの意味合いがある。

一つは、意識が目覚めること。すなはち「悟り」「覚醒」を得ること。
想ひに自己同一化してゐる状態(エゴの状態)から目覚め、意識が世界へと広がり、客観と主観とを同時に認識できるやうになり、世界を超えた超越者(創造者・根底)を認識し、実はそれが本来の自分だったと気づき、その意識で生きること。

二つめは、この世界を超えた次元があること、霊的な次元があることを認識して生きること。
これには、あの世、生まれ変わり、エネルギー・ヒーリング、チャネリング、宇宙的文明、さらには浅くライトスピリチュアルまで含まれる。日本の神様もこちら。

一つめのほうは、エゴから抜け出す道であるが、二つめのほうは、エゴが温存される。引き寄せ等の願望実現の手段として利用されたりする。

『スターピープル』では両方を紹介したいと思ってはゐる。一つめを中心に、二つめの広がりも組み入れて。

書籍についても中心をつらぬいた本をだしていきたい。

ぶれまくってゐる自分ではあるが。自分は抜け落ちるべく。

ナチュラルでもスピリチュアルでもない(笑)

先日、オイルマッサージをしながら霊的リーディングする人のセッションを受けた。
その人には会社名の「ナチュラルスピリット」ということを告げてゐなかったのだが、
セッション中、「ナチュラルでもスピリチュアルでもないな」と言はれた(爆)。

確かにさうだ。僕はナチュラルでもスピリチュアルでもない。
不自然な出鱈目な生き方をしてゐるし、スピリチュアルなことは何もしてゐない。
本はスピリチュアルな本を出しているが、出してゐる本人はスピリチュアルでない。
偽善者だ。

その霊的リーディングをする人からは呼吸法なり瞑想なりスピリチュアルな何かを一つでも実践したはうがいいとアドヴァイスをいただいた。

怒りを溜め、酒に走り、肝臓に負担がいってゐるので、このままだと肝硬変になると言はれた。
酒を控えるやうにと(笑)。
まさにそのとおりだ。それを言はれてから、ちょっと酒を控えるやうになった。
(控える日と暴飲する日とがあり極端だが)

怒りは、物事がうまくいかないところからくる。なんなんだよう。ちくしょう。といふ思いの連続。
待ちに待ち、やってほしいことをやってくれず、成果が出ず、言ひたい放題言はれ、耐へる日々。
怒りの解消法を学ばなくてならない(笑)。ものに当たるのではなくて。

霊的リーディングをする人は、ときに喧嘩もあってもいいと言はれてゐたが・・・

神は充満してゐる

「おぉ。神さまお助けください」
この言葉はマインド(心)の言葉で、今まで聞き入られたことはない(個人的に)。
言葉だけでは、神(根源・超越者)とつながらない。

「神さまお助けください」
いつも発してゐるが、それでだうなるわけでもない。
なぐさみにはなるのかもしれないが。
苦しみの連続なので、その言葉を発してしまふ。

「神さまお助けください」と言っても
助かってゐないの連続だが、でも助かってゐるのかな。

「神さまお助けください」といふ言葉よりも実際の感覚として
神とつながってゐる感覚があるほうが「救ひ」があり、それこそが「神の助け」だ。
すぐに叶う「神の助け」。心が救はれてゐる。

覚醒すると神が目の前に充満してゐる認識をもつ。
神の臨在(プレゼンス)をありありと感じる。
スーフィ達は、「神の照明体験」と言ってゐる。

「神の助け」とは具体的に何かを助けてくれるのではなく、
神の臨在を体験し、神の充満さの中にあることによって直接救ふ(救はれる)ことにある。
この現実世界がどちらに転ぼおうとそれに関わらず救ひがある。

五大元素と虹の身体

今日のチベット人の先生のドゥルクモさんの話では、虹の身体の「虹」とは五大元素(空=青、風=緑、火=赤、水=白、地=黄)の色を表してゐるといふ。
虹の身体とは、身体が五大元素まで還元されたといふことだ。この世界(五大元素の世界)を超越し、輪廻の世界から解脱したことになる。
人間は、貪・瞋(怒り)・癡(愚か)の三毒があることによって輪廻の世界を生きてゐると仏教ではいはれてゐるが、貪・瞋・癡(どん・しん・ち)は、五大元素の偏りによって生じるといふ。その貪・瞋・癡を取り除いてゆくのがアティ・ヨーガ(ゾクチェン)らしい。
如何に五大元素に解体してゆくのか、自由に操ることができるのか・・・
Kan.さんはその境地にゐるのだらうな。

ゾクチェンは、非二元の覚醒とも関係してゐるが、非二元の覚醒と五大元素への還元とどうつながってゆくのか。
サン・ジェルマンの『マジック・プレゼンス』では、「アイ・アム・プレゼンス(われ臨在す)」の認識がアセンション(虹の身体の獲得)の鍵であるといはれてゐる。
これらはだう結びつくのか?

経営ベタ

前にも何回も書いてゐるかもしれないけれど、やはり経営がヘタだ。
経営ベタだけれど、21年も続けてこれたのは、多くの人に助けてもらえてきたからだ。
感謝にたへない。
そして多くの人に迷惑を掛けてきた。今も掛けてゐる。申し訳ありません。

経営がヘタといふことは多くの人に迷惑を掛けること。嗚呼。

たくさんの経営書を読んできたけれど、一向に経営能力が身につかない。
経営書を読んでゐなくても、経営能力のある人はいくらでもゐる。

性格が弱いといふ点と時間に弱い(朝が特に弱い)といふ点が経営者には向いてゐない。
金銭感覚もない。

儲けたいと思ってゐるが、大義名分として出す本があったり、義理人情に流されて出してしまふ本があったりして、売れない本がたくさん出てしまい、利益管理ができてゐない。

出す本もしっかりした本に絞って出すようにしないといけないかな。
出版点数も減らして。
今のスピの出版界の過当競争から外れて。
今、新刊で出てゐる本のどのくらいの数が残っていくのだらう。
ほとんど残らないのかな(苦)。

またも名前変更!

先日お会いした霊能者から、今使ってゐるビジネスネームの「博央希」はエネルギーがないと言はれた。
本名の「博樹」やその前に使ってゐた「啓稀」のほうがエネルギーがあると。

確かに「博央希」にしてから全然会社の業績がよくなっていない(苦)。

他の二人の霊能者からは「博樹」がいいと言われ、「博樹」に戻そうかなと思ったが、
1年半前に、さらに別の霊能者からいい名前について相談したときにいただいた「宏紀」と「博揮」のうち「博揮」という名前を試してみようと思った。
姓名判断では、人格と外格が同数で横同格になるのでどうかなと思ふが。吉数だからそんなにひどくならないかな(笑)。

タロットでみたら「博樹」「啓稀」も悪くはないが、「博揮」のほうがいいカードが出た。

これから「今井博揮」で実験。
会社の業績は良くなるか(笑)。

神宿りし

けふは、山水治夫さんのCD『シリウス528』の発売記念&誕生日コンサートだった。

豊洲のシビックホールにあるイタリアのピアノブランド、ファツィオリのピアノでの演奏だった。

CD『シリウス528』の人気順の下のほうから順番に演奏してゆく趣向のものだったが、ときどき「神宿りし」演奏があった。

「神が宿る」とは、「ゾーンに入る」と近いやうで同じではないやうな感じがする。
「ゾーンに入る」ほうは神々しさがない。ランナーズハイでも気持ちは高揚するが、神性さはない。

「神が宿る」とは、神々しさが伴ひ、人を感動させる何かがある。
たとへばイエスの振る舞ひは、神が宿った振る舞ひだ。

神がゐます、と。

聖地に行ったときの感じもさうかもしれない。
神が降臨してゐると。

精神世界ランキング

イギリス旅

この1週間、イギリスに行っていた。
チャネラーと霊能者との旅だった(笑)。

チャネラーが場所をしたところに行き、そこでチャネリングし、霊能者が検証するという形だった。
検証率は50%くらい。

いろいろなところに行ったが、内容については3月15日発売の次号のスタピの愚言録に書かうかな(笑)。
あるひは、このブログでも少し書くかもしれない。

グラストンベリーのトールの丘