霊的な示唆

光と影のやさしいお話』は霊的なお知らせ、導きによって書かれた本だ。それもかなり強烈な。

僕にはそういう能力はないが、
霊能者やチャネラーや直感能力者がいろいろなことを言ってくる。

霊的な示唆、お知らせをどう受けとめるかはこちら側の判断だ。

それをどう受けとめるか。
そのまま受けとめるか、「ちょっと待った」として全部受け入れないか、一部だけ受け入れるか。

霊的なものはある。

霊的なことはこちら側では判断できない。

ある面で賭けなのかな。

信用できるかだうなか。

盲信はごめんだ。

賭けて進んでみて、間違い(失敗)であれば、その言やその人に対しては信用度ゼロになる。

精神世界ランキング

霊的エネルギーが強い本

世の中には霊的にエネルギーが強い本があるらしい。
その一つが山田征さんの『光と影のやさしいお話』という本だ。
霊能者が手に取ると、霊的に何かを感じ取るらしい。
内容もとても興味深いが、エネルギー的にもとても興味深い本かもしれない。
感じる能力のある方は是非感じてみてほしい。

試しにランキングに参加してみることにしました(笑)。

精神世界ランキング

気分がいいと運がくる

桜井章一さんと藤田晋さんの共著『運を支配する』(幻冬社新書)のP86で、桜井章一さんが、
「気分がいいと運がくる」といふ法則を述べてゐる。

覚的主体にあるとき「気分がいい」。故に覚的主体にあるとき「運がくる」。

覚的主体にあるとき、何とも言へない気持ちのよい状態になる。至福とも言へるやうな。
穏やかで心地よい状態になる。

すべてを肯定し、前向きな心持ちになる。それが運をよくしてゆくのだらう。

僕は去年まではネガティブ志向が強かったが、今年は気分のよい状態を多く作ってゆきたい。
そして運をよくしていきたい(笑)。

覚的主体、無位の真人、真我

自己知(気づき)の主体(覚的主体)とは、臨済が「無位の真人」と呼んだものであり、一般的には真我と呼ばれてゐるものだ。

覚的主体は、この世界(3次元世界)を超えてゐるがゆえに、時間と空間を超越し、「今ここ」に在りながらも永遠に在る。臨在してゐる。「われ在り(I AM)」の存在だ。

思ひ(思考)に浸る自己(エゴ)に対して気づいてゐとき「自己知」の状態であり、そのとき自我が脱落し、「われ在り(I AM)」が顕はになる。

「われ在り(I AM)」が顕はになるとき、無条件の愛もそこに在る。

一瞥とか覚醒体験とは、自己知の結果でしかない。
自己知(覚的主体)があって、はじめて覚醒体験がある。

われわれは、覚的主体への移行期にある。

覚的主体の比重がどのくらいかで、「臨在力」がはかれる。
逆に「臨在力」で、どのくらい覚的主体が目覚めてゐるのかがわかる。

優秀な編集者は少ない

スピリチュアル系の本の編集ができる優秀な編集者は極端に少ない。
大部分の人はできないし、できても初級レベルだ。
僕みたいな編集者でない人間がゲラを見ても赤だらけ(苦)。
だうしてかうもできないのだらう。
まず、スピリチュアルの知識がない。
知識がなければ調べればいいのだが、あまり調べてゐない。
文章整理もできてゐない。
見栄えも美しくない。

できない編集者の本は、端的に売れない。
(たまに売れてしまふ本もあるが。苦)

優秀な編集者の本は、切れる感じがする。冴え冴えする。
すぅっとエネルギーが通ってゐる。

優秀でない編集者のおかげで、日本のスピリチュアルのレベルも落ちた状態だ。
日本のスピリチュアルのレベルを上げるのは優秀な編集者だ。

もっと優秀な編集者が増えてほしい。
優秀な編集者よ、出でよ!

ホワイトブラザーフッド

霊的次元で地球を導いてゐる組織=ホワイトブラザーフッド(白色同胞団)。
エソテリックな組織でもある。
自分はそれには属してゐないし、属せるやうな資格も能力も品性もないけれど、そのやうな組織があるならば、外部的に爪の垢でも煎じるくらいのつもりで役立つことができればと思ふ(希望)。

今年は光と影(闇)を明らかにし、その統合の年になるかもしれない。
また、イエスの本当のことが明らかになる年かもしれない。

弊社の状況はともかくとして、いろいろ面白いことが明らかになる年かな(笑)。

人々の意識が今年はさらに目覚めていきますやうに!

継続(生き残り)

田舎は、高齢化がかなり進んでいて、廃屋も目立ちはじめてゐる。店や工場も閉鎖されてゐる。
栄枯盛衰の「枯」と「衰」の状態だ。
時間が経てば会社も何もしなければ衰えていく。
継続していくためには、時代に合わせて工夫をしていかないといけない。
弊社もまさにさうだ。

「願えば叶う」みたいな本が売れてゐる時代に、だう生き残っていけばいいのか・・・
ネットである程度情報が取得できる時代に、出版社としてどう生き残っていけばいいのか。
黒字を出し続けないと生き残っていけない。
そして価値ある本を出していきたい。

今年は存続が問はれる年だ。

明けましておめでたうございます

明けましておめでたうございます。
皆様にとりましてすばらしい年になりますやうに。

自分にとっては試行錯誤であったり、生き残れるかだうかだったり、かなり厳しい年になりさう。
人々が求めるものと自分が求めるものとが乖離し、人々が求めるものを提供できなければ会社としてはかなりやばい感じになる。
人々が求めるものが多様化してゐるのと初心者的な人が増えてきてゐるのとで、市場が一般書が得意な出版社に有利になってゐる。

覚醒に役立つものと、高次の意思にかなふものを提供できればと思ってはゐるが・・・

それとは別に、ひとのエゴに接するのは不愉快きわまりない。
家族、親族のさういふ振る舞いや言動に接するといらだたしくなってくる。
自分が未熟すぎるのだが。さういふ自分もエゴすぎるのだが。
マハルシやイエスは、ひとのエゴに接したりしたときに、だういふ気持ちになったり対応をするだらう。
自分はまだ悟りにはかなり遠い。

悟りの基本は、自己知

年末の掃除で家の換気扇を掃除していたら、何年分か溜まってゐたのか(前に借りてゐた人の分も?)、どぼどぼほこりが落ちてきた。マスクをしてゐたけれど、ほこり吸いこんでしまったようで気管支がやられたのか咳が出るやうになった。頭もちょっとふらふら。
パソコンの内部のほこり掃除をしたあとも体調をこわすので、ほこりには弱いらしい。
(ほこりには風邪の菌が溜まってゐる?)

20世紀の代表的な覚者のラマナ・マハルシにしても、クリシュナムルティにしても、グルジェフにしても、覚醒する(悟る)ために自己知を説いた。
自己知こそ、悟りのキーポイントである。
非二元難民が救はれるためには、自己知が必要だ。
自己知は会得するまでは難しいが、コツをつかめばあとは楽だ。
ただ人は簡単に想いの世界にひきづらてしまふ。
それで何度も自己知をすることになる。
その辺のいきさつはマクドナルド・ベインの『解脱の真理』に書かれてゐる。

悟ると苦脳しなくなると言はれてゐるが、自己知のときに苦脳する主体(エゴ)は消えてゐる。
自己知からエゴに戻るとまたエゴが出て苦しむことになる。

どこかでエゴに戻らなくなるときがくるやうだ。
アジャシャンティにしろ、松本自證さんにしろ、ほかの人にしろ・・・

自己知をしてゐる主体こそ「真我」と言はれ、「神」と言はれてゐるものだらう。

今は、非二元の情報が出始めたばかりで多少混乱状態かもしれないが、
やがて落ち着いてきて非二元や悟り・覚醒について社会的に明確になってくるのかもしれない(なってほしい、笑)。

日本にもたくさん悟った人が出てきてほしい(隠れずに)。

怒る人は悟ってゐない

「怒る人は悟ってゐない」と島田明徳氏は本で書いてゐる(『気の輝きに包まれて』)。

俺は怒りまくってゐるので悟ってゐない(笑)。

なぜ怒ることは悟りではないのか?

大元とつながり、大元で生きてゐたら怒りは生じない?
自他が一つのものとして認識して生きてゐたら怒りは生じない?

怒り以外にもネガティブな感情は生じない?
苦悩も生じない?

自己が抜け落ちてゐるから怒りが生じない?