真我認識と神を内に祭ること

ノンデュアリティ(非二元)の「真我認識」と、『よひとやむみな』で言はれてゐる「心の中心に神を祭ること」とは関連してゐるのであらうか。

意識(心)の周辺にゴモク(ゴミ)といふエゴや欲や善い悪いを判断する思考や感情があり、中心に台風の目のやうな静かな心があり、そこに意識をもっていくと神や宇宙とつながると『よひとやむみな』では伝へてゐる。
その中心に意識を置くとき、神を祭る場所ができ、そこに神が入ってくるといふ。

これはまさに「真我認識」(覚醒・悟り)と同じものだ。
想いに浸ること(エゴ)をやめ、主客同時認識によって、真我を認識する。真我は超越者でもある。
しかし、「真我認識」には中心がない。内もない。あるひは、外も内もすべてが内か。

「身魂磨き」とは、「真我認識」に他ならない。

真我を認識できてゐれば、大峠が来ても来なくても、どうといふことはなくなると『よひとやむみな』は言ってゐるのかもしれない。

ナチュラルスピリットも、エゴをやめ、真我(神)を認識しようといふ情報を伝へてゐるだけなのかもしれない。
それ以外の情報(霊的世界のことやその他)も伝へてはゐるが。

真我の認識が無条件の愛の生き方につながる

真我(神)を認識して生きることが、(無条件の)愛の生き方でもあると思ふ。
逆に、無条件の愛で生きようとするとき、真我(神)の認識が生じる。

禅とか、茶道その他の道も、思考を介さずにただ在ること、ただ在る生きたかを伝へるが、
ただ在るだけでは機械的な印象を受けるが、そこには真我認識、神とともに在る認識が伴ってゐると思ふ。
ただ在る生き方は、万物と一体であり、超越者(神)と共に在る生き方である。そこに愛がある。

医師も適当

整形外科の医師も適当。
一昨日、傷を縫ったところを抜糸してもらったが、今日みたら、糸が残っていた。
自分でピンセットで抜いた(笑)。

今回、何人かの整形外科の人に傷の消毒をしてもらったが、みんなやり方が違っていたり、適当だったり、自分の都合を押し付けて早く来いと言はれたり。

医者なんて、そんなものなのかな。

さう言へば、だいぶ前に皮膚科に行ったときに、患部を診ないで適当に処方されたことがあった(苦)。

看護師

足の傷で病院に通院してゐるが、看護師のスキルはまちまち。包帯も適当に巻く(本人はがんばて巻いてゐる?)人が多い。あとでほつれたりする。
中には、きっちり巻いてくれる人もゐるがごく少数。
看護師のレベルは高くない。
(看護師は適当に思ふ)

これはどの会社にもあれはまるのかな。
多くの会社員は、レベルが高くないのかな、と。
ごく一部の会社員にレベルの高い人がゐるのかと。

NHK番組の感想

NHKの番組の、WBCの日本の栗山元監督とユニクロの柳井さんの対談を見た。
柳井さんの意見はごもっともと思った。経営者であればみんな同じ感想や意見だと思ふ。
連戦連敗。問題の連続。

AIが今後30年の未来の可能性を6つのパターンで示したNHKスペシャルの番組。
失われた30年について、原因は消費税だといふ持論を自分は言ってゐるが、消費税および税制について番組では何も言ってゐなかった。非常に残念。
また価値観についても何も言ってゐなかった。
スピリチュアルについての認識がどれだけ社会に浸透するかによって今後の30年は大きく変はると思ふがその要素に触れてゐない。

2024年、波乱の幕開け

2024年元旦早々、能登で大地震が起き、大きな被害が出た。
被災者の方々にはお見舞いを申し上げるとともに、速やかな復興を願っています。
また他界された方々にはご冥福をお祈りします。

個人的にも元旦から熱が出て、ようやく今日落ち着いてきた(予断はゆるさないが)。
足の怪我の通院をしたり。
正月から(正月前から)いろいろ大変(苦笑)。

ロシアは正月早々、キーウにミサイル攻撃をするし。

2024年は、日本も世界も、個人も波乱の幕開けになってゐる。

2024年危機説

2024年になった。
2、3年前に、いろいろな霊能者のビジョンをもとに2024年危機説を伝えた。
今では、2025年7月危機説が主流なのかもしれない。
今年からいろいろ始まっていくのだらうか。

短気は損気とはよく言ったもので、年末に短気を起こして足を切る怪我をしてしまった。
歩くのに不自由し、正月に帰省する予定だったのができなくなった。
不愉快なことへの想念への密着が原因だ。
覚醒は想念から離れることだが、それとは真逆だ。想念に絡めとられてゐる。
できるだけ不愉快な想念にとらわれないやうにしようと思ってゐたが、
酒の作用もあり、短気になってしまふ。

自分のホロスコープの第1室に火星があるのも、短気で破壊的な性格をもたらしてゐるのかもしれない。
親から叩かれて育ったので、反抗的な性格になったのかもしれない。
どのやうな不愉快なことを言はれようと、平然とできたら。
今年の目標の一つ。
あるひは、一生直らないのか。
グルジェフのいふやうに、人間は機械で、「為す」ことができない。
覚醒に励むことしか、短気は直らないのだらう。
酒を控えるのも、今年の目標の一つか・・・

客観芸術

グルジェフは、芸術を「主観芸術」と「客観芸術」にわけて説明してゐる。

主観的な芸術は、単なる機械的な再生品か、自然や他人の模倣か、幻想。
それらは、芸術家にしても鑑賞者にしてもどちらも主観的かつ偶発的なもの。
偶然の連想。

本当の芸術は、説明しえないもの、何かを内包している。
偶発的なものは何もない。数学だ。

グルジェフは上記のやうに説く。

数学といふと黄金比を連想する。
パルテノン神殿や、薬師寺の東塔は、黄金比で作られてゐるといふ。
以前、薬師寺の東塔の存在感に圧倒されたことがある。
グルジェフのいふ「説明しえない何かを内包している」。

音楽でも、バッハやベートーヴェンの音楽は何かの比率で構成されてゐるのだらうか。
数学者はバッハが好きと聞くが、何か共通するものがあるのか。数学的な構築があるのか。

時に、「客観芸術」と「覚醒芸術」との関わりを思ふことがある。
「覚醒芸術」とは「客観芸術」なのだらうか。
そもそも「覚醒芸術」とは何なのか。(「覚醒芸術」自体、私の造語ではあるが、笑)
覚醒をもたらす芸術。または、超越者・聖なるものが現れてゐるやうな芸術。

眠ってゐる人が、「覚醒芸術」に接すると目覚めるのだらうか。
すべての人が目覚めるわけではないだらうが、一部の人には亀裂をもたらし、
覚醒へと導くのだらうか。
薬師寺の東塔のやうに。

二元性の世界に、それを超えた何かを感じさせるもの。
黄金比建築は、なぜそれを可能にするのか。
数学とはそもそも何なのか。二元性を超えたイデアの世界のものなのか。

イエスは幸せであったか

イエスは幸せだったのかな。
福音書の中でイエスが楽しそうにしてゐるシーンはない。
人間的なものを超えてゐるので、人間的な喜びはないのかもしれない。
常に真我と一体で、その中で生きてゐた。

あとは、、、役割を自覚してゐて、それに身を捧げて、幸せであるときがなかったのか・・・