真実なものだけが見せる輝き

ワンネスや覚醒について書かうと思ったけれど、けふの1曲を
グレン・グールド演奏のバッハの「フーガの技法」
にしようと思って聴き始めたら、はまってしまった。

そこには、真実なものだけが見せる輝きがある。
人の中心の何かに強く訴える。
涙がとめどもなく流れる。

「私は悟った」は悟ってゐない

ノンデュアリティの先生も言はれてゐるが、「私は悟った」というふ人は悟ってゐない。
「私」がある限り、それは悟りではない。
「私」がいなくなったときのありやうが「悟り(覚醒)」。
ただ、その先生曰く、「私」がゐるのもまた悟りの様相なのだ、と。すべてが悟りの様相なので、どのやうなことも悟りなのだ。悟り(純粋意識)でないものはない。

煩悩即菩提。
山川草木悉有仏性。

「私は悟った」という誤解意識も、悟りの様相。

けふの1曲。
前に違ふ演奏家のもので紹介したが、今回は日本の演奏家、漆原啓子さんのヴィターリの「シャコンヌ」

耳が遠くなった

最近、耳が遠いと言はれるやうになった(苦)。
年かな。
1回目では理解できず、聞き直してわかる感じのやうだ。
だいぶ年がいった感じ。

けふの1曲、Cynthia Freivogelのヴィヴァルディの四季(冬)も結構いい。
(バロック弓が現代のヴァイオリンの弓と形状が違ってゐて、面白い)

おまけVivaldi: La Folia Corelliかな?

覚醒のためのエネルギー

覚醒(自己想起)する、あるひは覚醒(自己想起)を持続するためにはエネルギーがゐる。
エネルギー不足やエネルギーが乱れてゐるときには覚醒は難しい。

グルジェフは『奇跡を求めて』で「水素論」を通して覚醒のためのエネルギーを論じてゐる。

仙道でも、練精化氣、練氣化神と伝へてきてゐる。
神(しん)とは意識のこと、特に覚醒意識のことを指してゐると思ふ。
覚醒意識を作っていくには、氣(=エネルギー)を練っていかないといけない。
仙道では、練り方をうまく伝へてゐないのかもしれない。
小周天、大周天という技法を伝へてゐるが、本当は自己想起によってエネルギーを練っていくのではないか。

そしてある程度時間が経過すると(2~30年くらい?)覚的意識の結晶化が起り、覚醒が安定化する。
それをグルジェフは磁力センターとも言ってゐる。

一瞥だけでは覚醒は安定しない。かいま見ただけ。重心が移行してゐない。
時間を掛けて熟していき、あるとき安定化する。

けふの1曲
Henning SchmiedtとChristoph Bergのジョイントの曲と演奏のhinein, hinaus?
(album “bei”より)

Henning Schmiedt(ヘニング・シュミート)もいろいろ面白い曲を作ってゐる。

辻はいつのまに、しんにょうに点二つ?

辻という漢字は、いつのまにか、しんにょうに点二つになってゐた。
『22を超えてゆけ』のときの辻麻里子さんの著者名は、しんにょうに点一つだった。
最近、改訂版や増刷等で、点二つになってゐることに気づいた。

ネットで調べてみると、2004年に策定された規格「JIS2004」でさうなったやうだ。
知らなかった(苦)。

他のしんにょうの付く漢字はだうなのだ。
「進む」は、点一つ。
違ひはなんなのだ!

しんにょうは、本来は点二つ。
正漢字では。
第二次大戦後、戦争に負けて、アメリカによって漢字も簡易化させられてしまった。

このブログでもできれば正漢字で書きたいが、変換するのが面倒で今の漢字にしてゐる。

あぁ、文化破壊。
東アジアで共通の漢字が使へない。
中共も、簡体字に変へてしまった。文化破壊。

二つの玄胎

結晶化と関連するが、仙道(神仙道も)には「玄胎」(陽神)という概念、技法がある。

それは、丹田で氣を練り、小周天で背骨を上昇させ、全面の正中線で下降することを繰り返すことによって、氣の球を練り強化し、「玄胎」(陽神)を作る。それを頭頂より出し(出神)、体外で自由に活動できるようにし、最終的には、意識を「玄胎」(陽神)に移し、肉体を氣化し、白日昇天をしていく。
体は氣の体になる。これはチベットのボン教や仏教の「虹の身体」に通じる。

もう1つの「玄胎」の概念、技法は、グルジェフのものだが、氣を練るのではなく、自己想起によって意識を覚醒し、覚的主体(不変の私)を結晶化するものだ。
これは意識の結晶化であり、非二元意識の結晶化だ。
この世の意識から半分脱出する。世間的に生きながら、半分は非二元の意識で生きてゐる。
グルジェフは、磁気化した不変の私がアストラル体を形成するといふ。
(アストラル体は最初からあるのではなく、作られていくものといふ)

「陽神」の「神」とは、仙道の概念では「意識」を指してゐる。神経の「神」だ。
「陽の意識」とは、「眠った意識(陰の意識=日常の思ひ浸った意識)」ではなく、「覚醒した意識」といふことができるのではないか。

とするなら、仙道の「玄胎」(陽神)といふ概念、技法は、グルジェフと同じものを指してゐるのかもしれない。
「覚醒の道」なのだ。
(グルジェフは氣を練らないが)

ゾクチェンも「覚醒の道」だが、その覚醒を通して結果として「虹の身体」(白日昇天)を作ってゆく。

結晶化

グルジェフは、不変の<私>になるには、結晶化が必要と説く。

普通?の人間はただ機会的な反応をするだけで不変の<私>はないといふ。
自己想起によって<私>が磁気化し結晶化して機会性を脱し不変の<私>になる、と。

自己想起とは、別名では一瞥だ。

一瞥ができていない人は、結晶化の一歩も踏めてゐない。
逆にいへば一瞥は、結晶化の一歩目でしかない。
結晶化の完成を10とすれば、一瞥は1でしかない。
結晶化の過程は、残り9待ってゐる。

結晶化は、また別名でいへば「悟りの定着」ともいへる。

今、スピリチュアル系の出版業界は混沌としてゐる。
かういふ状況のときこそ、非二元(エソテリック)の道をしっかり示すものを提供する必要があると思ふ。

けふの1曲、
Crystallize – Lindsey Stirling

グルジェフの曲

グルジェフの思想について書かれた『奇跡を求めて』(ウスペンスキー著)は、自分に最も影響を与えた本の1つだ。

エソテリックの神髄を語ってゐる。Kan.さんとも通じてゐる。

自己想起(自己知)は、ラマナ・マハルシにもクリシュナムルティにも通じ、グルジェフの思想は非二元とエソテリックが融合してゐる。

グルジェフは、客観芸術についても説いてゐた。
そして、グルジェフ自身、作曲もした。

グルジェフの曲を

何をどこまで

何をどこまですればいいのだらう?

覚醒(悟り、ノンデュアリティ)を限りなく追求すればいいのか、
エソテリックを追求すればいいのか、
スピリチュアルを人々に普及することをしていけばいいのか。

自己探求か、他者のためか。

菩薩行(大乗)は、みんなを救ってから最後に自分を救ふみたいなイメージがあったが、
自己=他者(包括者から見れば)であれば、みんなを救ふこと(みんなが救はれること)と
自己が救はれることは同じことなのだ。

すべてが一体として救はれる(救はれるとしたら)。

けふの1曲、
癒しの曲として、キース・ジャレットの「メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ウイー」をYoutubeであればと思ったけれど、本人のがなかったやうので他の人が弾いてゐるもので。(CDで本人のを聴いてほしい)
My Wild Irish Rose ~The Melody at Night, with You~

おまけで、キース・ジャレット自身の、
Danny Boy

When You Wish Upon a Star

キース・ジャレットは、グルジェフの曲もCDとして残してゐる。