年末らしくない年末

久しぶりの投稿(笑)。

今年はコロナのせいか、年末らしくない年末。
ただ単に忙しいだけ。
年末感がない。

街にはクリスマスソングも流れず、スーパーも正月飾りを売ってゐてそそくさとしてゐるやう。

なんなのだらう、この風潮は。雰囲気は。

コロナということでマスコミに踊らされすぎ?

逆に例年のクリスマスソング一色の年末もだうかしてゐるのかもしれないが。

今年は人事が安定しない年だったな。
それにより、かなりストレスだった。

が、ヒルティの『幸福論』第3巻をまた読み返して、「神のそば近くにあることが幸福だ」ということをあらためて認識しなおし、神(=主客を超えた超越者、包越者)を認識し感じることが幸福であり、悩みからの解放であることを再認識できたことは、今年の大収穫だった。
悟りや覚醒も大事だが、自己といふものがあってもいいので神に向き、その近くにあることが今の自分にとっては中心課題だ。暴飲暴食をしたり、いろいろな妄想にふけったりすると神のそば近くから外れてしまふが、できるだけ神に意識を向けるようにしたい。

イエスの言はれた
「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」
は、言い得て的を射ている。

『カネのない宇宙人』

テレビのドキュメンタリーで、『カネのない宇宙人』を見た。

なんかまう、この国の政治は下の下の下だと思った。

教育や研究費にお金を使ってゐない。
(OECD35カ国で最低)

うちの会社も税金をそれなりに(たくさん)出してゐるのに、変な使われ方をしてゐる。
もっと科学の研究費(や文化)に税金を使ってほしい。

日本の政治家は下の下の下の下。
最低の人種。

それを選んでゐる日本人は同レベル。下の下の下の下のレベルの民度。

こんな国に住んでゐるのか。

文化も最低レベル。

出版で文化に貢献しようとしてゐるつもりでゐた(る)が、効果が全然出てゐない。

まう、日本(の文化と科学)はダメなのかな。
おそらく、さうだ。

如何に安倍前政権が文化にも科学的な研究に貢献してこなかったか。

ムーンショット計画」といふおぞましい政策もあり、日本の未来は暗澹たるもの。

他の国もさうなのかもしれないが。
なんでこんな地球になってしまったのか・・・

 

けふの曲
知らなかったが、ギロックの曲

幸福には神(覚醒)が必要?

悟りは、マインドの働き外だから自分とは関係ない、と思ってゐたら無意味感におそわれ、何の喜びも感じられず楽しくない日々を過ごすことになった(苦)。

いったい人の喜びなり幸福なりとは何なのか?

ヒルティは『幸福論』の中で、神に心を向け、神のそば近くにあることが幸福だ、と言ってゐる。幸せの霊がやってくる、と。

「幸せの霊」とは「覚醒時の幸せ感」と通じるものがあるやうに思ふ。

クリシュナムルティは、観察者と観察されるものが一体となり解消され、思考が沈黙したときに至福があると言ってゐたやうな。

人は幸せ感がなくては生きられない。

悟り云々で、幸せがなくなるのなら何の意味もない。
それは本当の悟りではないのかもしれない。

神なり、超越者なり、覚醒なりを意識して、幸せを感じて生きていくにしくはない、のかもしれない。

アメリカ大統領選

地球の命運を決めるアメリカ大統領選だが、バイデンがほぼ確定らしいが、
トランプもバイデンも人相がイマイチだ。
バイデンはとってつけたような人相。整形人相? 何を考えてゐるのかわからない。
崇高さは感じない。
副大統領へのつなぎといふうわさもあるが。
左派の副大統領が何をするか得たいが知れないが。

混迷の地球情勢。

 

スピの人達も混迷???

GO TO 書店

GO TO トラベルや、GO TO EATが取り上げられ、政府の援助も受けてゐるが、
GO TO 書店(ネット書店)もあっていいと思ふ。

GO TO トラベルやGO TO EATになってから、本の売上が落ちたやうに思ふ。

コロナの初期の頃は、自宅に引き篭もってネットで本を購入していただく機会が多かったやうに思ふが、GO TO トラベルやGO TO EATになって、そちらにお金を投入することになって本を買わなくなってしまったのかなと思ふ。

なかなか難しいところだが、本も買って!

自分を愛せない人は、現実もよくない

とある先生から言はれた。

自分の言動はネガティブな発言が多く、それが自分の現実を作ってゐると。

確かに自分は自分を愛してゐない。

でも腹が立ったりするのは自分を愛してゐるからか(笑)。

自分は自分を愛してゐないから、いろいろいやなことが起るのか。

自分を愛することは簡単にできないが、自分を大切にすることならできそうだ。

とりあへず、忙しすぎて対応マシーンになるのはやめよう。
疲れたら休むようにしよう(笑)。連絡しなくなってもすみません!

右腕にいろいろやってもらう。その前に右腕をつくらないといけないが。
今までつくろうとしてきたが、全然できなかった。またネガティブになってきたな(苦笑)。

織田信長には右腕はいなかった?
豊臣秀吉には右腕はいたか。黒田官兵衛? 豊臣秀長?
徳川家康の右腕は、本多正信? 天海?

声掛け運動?

よく駅のポスターやアナウンスで「困ってゐる人に声を掛けましょう」と呼び掛けてゐる。
(駅以外でもやってゐるのかもしれない)

これは誰が呼び掛けてゐるのか? 国の行政機関?

だうして呼び掛けるやうになったのか? (誰かor何かのさしがね?)

駅の従業員だけでは対応できず、みんなの手を借りたいから? みんなの親切心を頼りたいから?

本来なら、そんな呼び掛けがなくても助けるのが人の何とか。

韓国人やアメリカ人なら、変な声掛け運動なんかなくても助ける。

日本人は、恥ずかしがり?なので、困ってゐる人がゐても見て見ぬふり。
まわりの目を気にする。助けたいと内心思ってゐても助けられない。

それで、上?からの声掛け運動?

でも何か変。

何なのかな、この国民性は。

(海外講師のワークショップでもそれは如実に出る)

覚醒のエネルギーと性エネルギーは同一

グルジェフは、高次感情センターと性センターは同じ水素の数、つまり同じエネルギーで働くと言った。高次感情センターは覚醒を司る。つまり覚醒のエネルギーと性エネルギーは同じものなのだ。
これは、体感的(感覚的)にもわかることのやうに思へる。これは肉体的な行為とは何の関係もない。意識エネルギーのことだ。意識エネルギーが性エネルギーでもあるのだ。
(これは非二元的なエネルギーだからだらうか?)

グルジェフは、性エネルギーが純粋に働いたらすごいことになる、と言ったが、それは性エネルギーは覚醒レベルで働くからだ。

ただ、性エネルギーは反面、想いや事物に自己同一化しやすく、「眠り」のエネルギーにもなってしまふ。
またしてもグルジェフだが、性エネルギーは「誤用」されやすい、と。それは「無用な熱狂」として現れると言ふ。スポーツなどは性エネルギーの誤用の典型だ。サッカーなど「無用な熱狂」そのもの。

キリストを着る

自分は悟れないとすれば、そして眠りのまま生きないとすれば、だうなのか。
悟り=超越者=神=キリストをあてにして生きることになる。
自己と悟りは違ひ、悟りは外在でも内在でもなく、自他を超えたところにある。悟り=神。
縦軸。垂直。
自己は、神(悟り)をあてにして(あてにしてゐることを自覚して)生きる。
キリストを着て生きる。

多くのスピリチュアルの人は「自己」表現をしたいだけ

多くのスピリチュアルの人は「自己」表現をしたいだけのやうに見える。
表現をしたいといふのは人間の欲求としてあるが、「自己」表現となると何か微妙な様相を呈してくる。

「表現」といふのは本来、自己を滅することなのではないか。表現に徹するといふか。
表現に徹することによって、何かが顕れるといふか。

たとへば、
祈り – ラ・フォリア Corelli (袴田美穂さん演奏)

悟りにおいて、「自己」が必要ないやうに。

「何か」といふのは垂直のものか。