われわれは、神様ごとをしたりして、神様のことを傳へたいと思ってゐる。
逆に神様からしたら、自分達のメッセージを傳へたいと思ってゐるやうにも思へる。
神様達は傳へたいことがあるやうなのだ。
それをうまく傳へていけたら。
われわれは、神様ごとをしたりして、神様のことを傳へたいと思ってゐる。
逆に神様からしたら、自分達のメッセージを傳へたいと思ってゐるやうにも思へる。
神様達は傳へたいことがあるやうなのだ。
それをうまく傳へていけたら。
先日、歴史物のテレビ番組で神田昌典さんが、97%はうまくいかないという話をされてゐた。
自分の説と同じことを言ふ人がゐるのだなと思った(笑)。
「満たされない自己」が満たされようと欲し欲し欲しまくる。
代替として食べ物で、酒で満たそうとする。
食べて食べて、呑んで呑んで呑みまくる。
酔ひつぶれる。
感覚が麻痺する。
「満たされない自己」とは何か?
通常の「自己」と同じものなのか。
周辺の思念体なのか。
台風の目の中心には「満たされない自己」はないのか。
「満たされない自己」を客観視すれば消えるのか。
世界の諸問題の根源は「満たされない自己」だ。
けふの1曲はヴィターリのシャコンヌ(たびたび登場するが)
ヴァイオリンはDaniel Auner、パイプオルガンはHannfried Lucke
自己について、覚醒について、
『自己とは何か』と『よひとやむみな』とノンデュアリティを比較・関連させながら考察してみたい。
エゴ(自我)のときは、思考・思念で意識が充満しそれらに自己同一化してゐる。
雲がもくもく状態で、いわゆる「眠り」の状態だ。
そこから思考・思念に対する自己同一化をやめると、台風の目のように思念はまわりにあるが、中心は目覚めた(覚醒した)状態になる。バーナデット・ロバーツは、その中心を「聖なるもの」(神性)と呼んでゐる。『よひとやむみな』では意識の中心に神が宿ると言ってゐる。
「身魂磨き」とは「覚醒」のことでもある。
バーナデット・ロバーツは、その周辺の思考(自己)を脱落した体験をする。すると中心(神)もなくなり、「虚無の中の虚無(void of voids)」になるといふ。それはそうとうキツイらしい。どこにも救ひはない。自己も神もない。
そこにキリストは現れ、道として示されるといふ。「わたしは道であり、真理であり、生命である」と。
(キリストは、人間が辿る道を逆に人間まで降りてきたのだといふ)
「身魂磨き」の究極もそこにいくのか。
当面、「身魂磨き」=「覚醒」は自分の課題であり、世の中の課題でもある。
その意味では、『魂の実践』も参考になる。
けふの1曲、ロシアのヴァイオリニストGalina Barinova演奏の、タルティーニのSonata for Violin and Basso Continuo in G Minor, Op. 1, No. 10 “Didone abbandonataa”
脱炭素社会の対策として、火力や石炭の化石燃料の消費を抑えることが提言されてゐるが、植物を増やせば二酸化炭素を減らせる。なぜ、それを各国や識者は言はないのだらうか。
どんどん木を植え、植物を増やしていけばいいのではないのだらうか。
もちろん自然エネルギーを使ふのはいいと思ふが、片手落ちだ。
エゴによって二酸化炭素を増やし、それを減らそうとする動きもエゴ。
エゴの上塗り。
太陽光発電を砂漠にみっちり敷くのは不自然。
自然を回復していく方向に行くのがいい方向ではなからうか。
前にも書いたかもしれないが、
自分の場合、95%~97%、物事はうまくいかない。
これでもかといふほどうまくいかない。
法則性でもあるのか。
うまくいかないことの連続なので、心もへこむ。
諦めればいいのだらうが、うまくいかないといふこと自体に苦痛といふ要素が含まれる。
「何々すればうまくいく」といふやうな本がたくさん出てゐるが、自分にとっては嘘に見える。
休息が必要だ。
夢も希望もない。
神があればいいのだらうけれど、今のところ、その感覚がわかない。
それほど疲れ切ってゐるのか。ストレスで押しつぶされてゐるのか。
芸術作品の中には神が宿ってゐると感じられる演奏や作品がある。
これといふのは何なのだらう?
なぜ神を感じるのだらう。
人にも神を宿った人を感じるときがある。
常時、宿ってゐる人と、そのときだけ宿ってゐる人と。
それとは別のことだが、一期一会とは何なのかな。
そのときにしか会はないのに妙に気に留めてしまふ。
まう会ふことはないと思ふと貴重にも思ふ。何かの縁があったのかと。
世界の妙(たへ)なるもの
いつも誠と思ってとやってゐるが、実はエゴなのかもしれない(苦)。
自分の誠なんかアホらしい。
平面意識には深みがない(当たり前か、笑)。
理屈に深みはない。
理論にも深みはない。
それらは平面。
垂直ではない。
垂直に行くには、あるひは、垂直から降りてくるには、
非二元の意識になる必要があるやうに思ふ。
非二元の意識のない人には、垂直のことはわからないし、
深みもわからない。
『よひとやむみな』でいふと、理屈・理論は周辺意識で、
中心は、非二元の意識だ。
非二元の意識になってゐるとき、神にもつながるのだらう。
どこまでも深く、すべてを包むほどひろく、限りなき高み(崇高さ)をも内在する。