一瞥(覚醒)は、愛の過程の自然現象かなと思ふ。
愛=無我となって相手に対するときに、どこかの過程で一瞥といふ現象が起るのかなと。
主客を超えた意識になり、神(超越者)を認識するようになる。
覚醒を求めるのと、愛を追求するのと、自己を極めるのと。
身魂磨きとは、愛の実践でもあるのだと思ふ。
けふの1曲
バッハのシャコンヌ 五嶋みどりさんの演奏で。
一瞥(覚醒)は、愛の過程の自然現象かなと思ふ。
愛=無我となって相手に対するときに、どこかの過程で一瞥といふ現象が起るのかなと。
主客を超えた意識になり、神(超越者)を認識するようになる。
覚醒を求めるのと、愛を追求するのと、自己を極めるのと。
身魂磨きとは、愛の実践でもあるのだと思ふ。
けふの1曲
バッハのシャコンヌ 五嶋みどりさんの演奏で。
純粋な人には純粋に接したい。
自分は純粋ではないが。
純粋でない人には不純に接するのか(笑)。
臨機応変か。
その辺が自分のダメなところか。
純粋でないがゆえに。
けふの1曲
La Folia from the Renaissance through the Baroque Music
ちょっと南米の雰囲気をも持つルネッサンス期の音楽
心のわかちあひが、喜びのやうに感じられるが、でもそれがエゴや願望のわかちあひなら何の興味もない。
心をわかちあふって何をわかちあふのか、相手の純粋な心に対する共感なのか。
純粋な心とは何なのだらう?
何か神や愛に通じるものなのだらうか。
けふの1曲
ビーバーのパッサカリア(Biber Passacaglia)
いろいろな人が演奏してゐるが、今回はDmitry Sinkovskyの演奏で。
この世界は、幻想の世界なのか、それとも幻想とみなしてゐる世界なのだらうか。
救ひのない世界で救ひを探してゐるのか、救ひのある世界で救ひを探してゐるのか。
ハムレットの如く、To be or Not to be.
日本は、消費税を導入してから失われた30年間を生きてゐる。
その間、学問や研究機関にお金を投入せず、世界的に学問レベルが落ちてゐる。
最近よく大学のランキングの記事を見るが、日本の大学は世界の大学のレベルからすると結構下だ。
日本の政治家は何をやってゐるのだらうと思ふ。
税制や経済政策を間違い、研究にお金を使はず、文化も栄えず、低レベル国家になってゐる。
嘆いてもしょうがないが、しょうがなくても嘆く。
目覚めた人が増えると、国も変はっていくのか。
ここに書いてゐるのは戯言(ざれごと)だが、
人間とは何なのだらう。
『イワンのばか』的な人もゐれば『カラマーゾフの兄弟』的な人もゐれば『桜の園』的な人もゐる。
個人的にはチェーホフ的な人間は気楽でいいかなと思ふが(注付き。時に哀愁をおびるが)、イワンには頭が下がり、ドストエフスキー的人間には閉口する(えぐられる)。
それぞれ人間を描ききってゐる。
人間は多様である。
(多様な人間の中で会社経営もしてゐかなくてはならない、苦)
けふの1曲。われらがロシアのヴァイオリニストGalina Barinova
バッハのSonata No. 2 for Violin and Harpsichord in A Major, BWV 1015: I. Andante
パウロの言葉に「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」といふのがある(ガラテヤ2・20)。
これは『よひとやむみな』のエゴを捨て内なる神が生きるようにする、と同じ意味。
うちに神があって、それが働くようにする。エゴはそれに仕え、邪魔しないやうにする。
「身魂磨き」とはこれのこと。
オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』では、練習中のヘリゲルがいい動きをしたときに師がそこに仏陀を見、お辞儀をするシーンがある。
これも、うちなる仏陀・キリスト・神が働いたものだらう。
神が宿る、ともいふ。
入神。神が入ってゐる。
覚醒(一瞥)によって、外なる神を見出し、やがてエゴが抜け落ちていくと内に神を見出す。
バーナデット・ロバーツの『無自己の体験』『自己とは何か』で、その流れがわかる。
自分は全然、神が生ききれてゐない。
われわれは、神様ごとをしたりして、神様のことを傳へたいと思ってゐる。
逆に神様からしたら、自分達のメッセージを傳へたいと思ってゐるやうにも思へる。
神様達は傳へたいことがあるやうなのだ。
それをうまく傳へていけたら。
先日、歴史物のテレビ番組で神田昌典さんが、97%はうまくいかないという話をされてゐた。
自分の説と同じことを言ふ人がゐるのだなと思った(笑)。