覚醒という観点から見れば、苦しみも空である。覚的世界の一現象にすぎない。
悟った人も悟ってゐない人も骨折すれば痛い。苦痛だ。
悟った人も悟ってゐない人もお金がなくて食べ物が買えなければ空腹で苦しむ。
悟った人も悟ってゐない人も仕事がなければ生きていけない。だうしたものかと考慮する。
グルジェフに言はせれば、悟った人は外的考慮をし、悟ってない人は内的考慮をする。
外的考慮は客観的に考えることであり、内的考慮は煩悶だ。
煩悶も空ではある。
耐えることもしんどい。耐えることもしんどさも空だ。
チベットのゾクチェンは、非二元の教へであり実践であり悟り(覚醒)そのものを指してゐる。
そして心の本性にとどまり続けること実践する。
非二元は空であり輝きであるといふ。
ゾクチェンと禅はほぼ似てゐるが、禅は「輝き」のことをあまり言はない。
イスラム神秘主義(スーフィ)やクリスト教神秘主義のほうが「輝き」を多く言ふ。
「照明体験」だ。
イルミネーションであり、エンライトメント(光明)。
この輝きは、5大元素の輝きであり、心の本性(覚醒それ自体)にとどまり続けると
5大元素が整い、虹の身体へと変成していく。その技法?がトゥーゲルだ。
苦しみの中でも心の本性にとどまり続けなけば。。。
またグルジェフの話に戻るが、イエスとノーの葛藤によって〈私〉の結晶化が起こると言ってゐた。
〈私〉とはI AMであり覚的主体だ。
あっち行ったり、こっち行ったりの文章になってしまった(笑)。いつもだが。