道にはマインド(思考)の道とハート(感情)の道がある。(それ以外もあるが)
『奇跡のコース』はマインドの道だ。ハートのことよりもマインドが優先のイメージである。
今度出す『イエスとブッダが共に生きた生涯』でもそのことが明確に説かれてゐる。
そして『愛のコース』はハートの教へは説いてゐるが、『奇跡のコース』とは別もので、
純粋な非二元ではないといふ。
ニューエイジや海外のスピリチュアルの講師は、マインドよりもハートが大事と説く人のはうが多い。
マインドはエゴに基づいてゐるからといふ理由からかもしれない。
エゴの元はマインドだ。
それに対して『奇跡のコース』は「神のマインド」を説く。神のマインドはエゴなのだらうか?
神の思ひとは何か。
『奇跡のコース』は認識の変換(転換)を説くが、その認識はマインドのことで、マインドの転換が
必要なのだといふことを説いてゐるのかもしれない。
マインドの転換こそ、「覚醒」(悟り)なのだ。悟りはハートに属しない。悟りはあくまで知覚に属する。
マインドと知覚はイコールでないかもしれないが、同じ認識のグループになる。
でも覚醒(悟り)は、マインドが落ちること(ノーマインド)を指すのではないか。
マインドが落ちたときの知覚、認識を覚醒(悟り)といふ。
マインドの道を通して、マインドを落とす。
では、ハートに道は何をしていくのか?
ハートに重心を移すことによって、マインドを落とす?
自分のこれまでの経験では、ハート(胸の中心)に位置している意識、知性が目覚め覚醒してくると、頭とつながったマインドで起こる知覚も想念も意識の周辺部を漂っている雲のようなほとんどリアリティをもたないものになってしまいます。そのためマインドを落とす必要も超える必要もありませんし、ハートに移す必要もありません、ただハートの中心にある本来の意識が目覚め、立ち現れてくればいいだけです。そしてこれは魂レベルでの覚醒になるので、マインドの覚醒よりもより本質的なレベルでの覚醒にあたるような気がします。そしてハートの中心にある知性の覚醒は意識内で起こる覚醒ではなく魂に属しているライトボディ全体で起こる覚醒なので、クンダリーニの目覚めとかなり連動していると思います。それにマインドで起こる覚醒は、副作用はあっても脳に作用する覚醒剤などの薬物でも経験できてしまうものだと思います。が、ハートの中心にある知性はライトボディの活性化と連動して目覚めてくる覚醒になるので、肉体に作用させるような薬物では覚醒できないと思います。そしてこのハートの中心にある意識には一般にハート・チャクラとつながりあるといわれるような感情だけでなく、通常のマインドが行っているような知性、知覚、記憶能力などもすべて併せ持っていて、幽体離脱して肉体から離れた状態で使っている知覚もたぶんこの胸の中心にある意識(どこかのレベルでサードアイともつながっているかもしれませんが)で行っているのだろうと自分は推測しています。ラマナ・マハルシがハートに重きを置いていたのも、胸の中心にある意識がたんに感情のセンターだけではなく本来の知性とも呼べるものが位置している場所だからのような気がします。そういえばラマナ・マハルシは対話の中で「実現が起こる前にはクンダリーニ・シャクティが起こらねばなりません」と語っていますね。