神ながら

梨岡さんは、人が死んでから神になることはない、と言ってゐた。
神道では、「神ながら」を説いたりしてゐるが、神にならないのであれば、「神ながら」といふのは人には当てはまらない。
「神ながら」ならぬ、「人ながら」なのかな。
人として生きる道なのか。神道ならぬ人道。

人としての道といふのもなんなのか。

今の人は、人の道を外してゐるやうに見える。

自然を破壊しまくってゐる。

妄想の世界の住人になってゐる。

人は覚醒したとき(自他の同時認識をしたとき)、この世界を超越し、超越者(神)の意識に達する。

覚醒意識(神の意識?)で生きるとき、ある意味では「神ながら」になるのか。

神の意識で生きてゐても、それは、神々ではなく人としての生き方ではある。

なぜ今もNATOがあるのか?

現象界のことではあるけれど(笑)、なんで今もNATOがあるのか不思議。
ソ連が崩壊し、共産主義国でなくなったロシアや東欧ができたのに、そして敵対する必要がなくなったのになぜ今もNATOがあるのか。
ワルシャワ条約機構はないのに。

アメリカやイギリスの陰謀?

自由主義の敵は、ロシアではなく中国の共産主義では?

善悪はないが。
(善悪がない件は、来月出すジョエル・ゴールドスミスの『静寂の雷鳴』を読んでもらえたら)

禅(頓悟)とグルジェフ

禅では頓悟を重要視する。1回の悟り・一瞥体験だけといふイメージがある。
もともとは1回だけの悟りを重視しなかった。大燈国師のように20年も橋の下で悟後の修行をした。白隠禅師は最初の一瞥体験(小悟?大悟?)のあと、何度も小悟・大悟を繰り返した。

グルジェフは、自己想起(一瞥体験)を長年修練しないと確立しないと言ふ。

一瞥体験の後、長年(20年~30年?)修練しないと本当の覚醒とは言へないといふのが真実のところだと思ふ。
中には短時間の人もゐるやうだが。ネドじゅんさんとか。

スピリチュアルと非二元

溝口あゆかさんとお話をしていて、イギリスではスピリチュアルと非二元(覚醒・悟り)は明確に分かれてゐると言はれてゐた。
それに反して日本では、非二元の人もスピリチュアルを交えて話してゐる人が多いと。

確かにさうだ。
スピリチュアルは霊的な世界のいろいろな階層について言ふが、それらは現象界のもので相対的な世界のものだ。非二元は相対世界を超えたところを指してゐるので、スピリチュアルとは異なる。

日本でも、その辺のことが明確になればいいのにと思ふ。

スピリチュアルの人は非二元(覚醒・悟り)のことは理解できてゐない。残念ながら。

スピリチュアルって?

久々の投稿(笑)。
何かいろいろあると投稿しなくなる。

それはそれとして、自分はスピリチュアルでないとよく言はれる。
ネガティブ発言連発だったり、愛だの光だのポジティブだのを言はなかったり、なのかもしれません。
また、日頃の行動も全然スピリチュアルでないのも、そのせいなのかもしれません。
考へが軽いのも、さうなのかもしれません。

スピリチュアルってなんなのかな?