考察 『自己とは何か』『よひとやむみな』との関連性

自己について、覚醒について、
自己とは何か』と『よひとやむみな』とノンデュアリティを比較・関連させながら考察してみたい。

エゴ(自我)のときは、思考・思念で意識が充満しそれらに自己同一化してゐる。
雲がもくもく状態で、いわゆる「眠り」の状態だ。

そこから思考・思念に対する自己同一化をやめると、台風の目のように思念はまわりにあるが、中心は目覚めた(覚醒した)状態になる。バーナデット・ロバーツは、その中心を「聖なるもの」(神性)と呼んでゐる。『よひとやむみな』では意識の中心に神が宿ると言ってゐる。
「身魂磨き」とは「覚醒」のことでもある。

バーナデット・ロバーツは、その周辺の思考(自己)を脱落した体験をする。すると中心(神)もなくなり、「虚無の中の虚無(void of voids)」になるといふ。それはそうとうキツイらしい。どこにも救ひはない。自己も神もない。
そこにキリストは現れ、道として示されるといふ。「わたしは道であり、真理であり、生命である」と。
(キリストは、人間が辿る道を逆に人間まで降りてきたのだといふ)

「身魂磨き」の究極もそこにいくのか。

当面、「身魂磨き」=「覚醒」は自分の課題であり、世の中の課題でもある。
その意味では、『魂の実践』も参考になる。

 

けふの1曲、ロシアのヴァイオリニストGalina Barinova演奏の、タルティーニのSonata for Violin and Basso Continuo in G Minor, Op. 1, No. 10 “Didone abbandonataa”

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