イエス・キリストの使徒たちやフランチェスコなどは、絵などで頭に光のオーラが描かれてゐるが、実際にその人達に会ったら光が灯ってゐて輝いてゐるやうに見えるのだらうな。
聖なる光が宿ったといふか。
英語でエンライトメント(Enlightenment)といふ表現があるが、光が灯された、光明を得た、といふところから「悟り」とも訳される。
では、「悟り」のメッカ、仏教では、悟った人は明かりが灯っているのだらうか?
光輝いてゐるだらうか。
あまりさういふイメージがない。
なぜか?
神道では、清く明るい心を尊ぶ。
そのやうな人も明かりが灯った人なのかな。
メッカのメッカ、イスラム教ではだうか?
イスラム教、特にスーフィーでは「照明体験」といふことが言はれる。
自分が光るといふより、超越的なものから光が照射される体験。
でも、ルーミーあたりは光が灯っていたようなイメージがある。
神に酔いしれる人に、明かりが灯るのだらうか。
神からライターかマッチでろうそくに火を灯されるやうに、人は輝くのだらうか。
ルーミーもフランチェスコも旋廻する。
自己を超越した何か明け渡し、その超越した何かによって生きてゐる人。
その人を通して、超越した何かが感じられる。