悟りとは死ぬこと、といふと山本常朝の『葉隠』の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」を想い起こすが、ラマナ・マハルシは十代のときに、自分が死ぬといふことを見つめて真我に至った。
死を見つめることは、悟りにつながる。
死は肉体の死といふよりも自我の死だ。
自我が死んだときに残るもの。
死を通して、生死を超えたものを見出す。
無の地平
悟りとは死ぬこと、といふと山本常朝の『葉隠』の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」を想い起こすが、ラマナ・マハルシは十代のときに、自分が死ぬといふことを見つめて真我に至った。
死を見つめることは、悟りにつながる。
死は肉体の死といふよりも自我の死だ。
自我が死んだときに残るもの。
死を通して、生死を超えたものを見出す。
無の地平
このブログはスピリチュアルの本を出してゐる出版社の社長が書くブログとしてはふさはしくない、と言はれたと言はれた(呵呵大笑)。
社長失格である。
性格が変で、経営能力もなく、運だけで勢いできたので、まうだうしやうもない。
変な文章しか書けない。
最近は、勢いよりも死を見つめつつやってゐる感もあるが。
今まで(これからも)目覚め(覚醒)へと意識の変換を促す方向につながるものを提供していかうとしてきたが。
自分は人間ができてゐないからしょうがないな。
意識が変換したからだうなのか、といふところもある(笑)。
いい世の中になるのか。
こんな情熱社長もゐる。
先日、六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで、世界から21丁のストラディヴァリウスを集めた「ストラディヴァリウス 300年目のキセキ展」があって見に行った。
それを実現した33歳の「日本ヴァイオリン」の社長の中澤創太さんの情熱がすごい。
クレモナ市バイオリン博物館の館長に会うために、待ち伏せで50杯くらいコーヒーを飲み続けたといふ。他にもその展覧会を実現するためにねばりにねばり続けた。まう脱帽である。
ここのその記事がある。
https://mainichi.jp/articles/20180927/mog/00m/040/008000c
1990年代は、スピリチュアル界も割りと特化した質のいいものが多かったやうに思ふ(全体としては数は少なかったが)。
しかし今は、まう玉石混淆で、情報はネットでも書籍でもものすごく多くて、質はバラバラ。
数の多さで、質のいいものが埋もれてしまってゐるのか、見えにくい時代だ。
質がいいものがあるのかもわからない。
なぜ今の時代、これでもかと言はんばかりに情報を投入するのだらう。
玉石混淆で先も見通せない。
見通せない時代を生きていくしかない。
出版社としては、時代を切り拓いたり、見通しを示したりする役割があると思ふが(笑)。
これでは失格だ(苦)。
存在の深みへと入っていく。
音楽とともに。
響きとともに。
誰でもが死ぬが、死ぬと魂が体外離脱して自我意識を持ち続けると言はれてゐる。
さうなのかもしれないが、もし無になるとしたらだうなのだらうか?
産まれる前の状態に戻るのだらうか。
それは産まれる前の意識と言へるものなのだらうか。
産まれる前は自我意識はない。
認識もない。認識する器官もない。
認識する主体と客体が生まれる前の意識。
全体としての意識。
神の意識と同じ意識。
何も認識してゐない意識。
意識だけがある意識。
何の知識もない意識。
よく人は神の分霊、神の子、神をやどしてゐるとか言はれるが、
さう言ふ人はわかってゐて言ってゐるのだらうか。
何が神で、何が分霊なのか・・・
死ぬと、認識しない(できない)意識だけになるのだらうか。
自己が生まれる前の意識。
塩野七生さんの『ローマ人の物語』を読むと、為政者たちが如何にローマをだうしていったらいいかを模索し、世界の秩序について考えてゐたかが窺える。
ひるがえって、日本の政治家を見るとそんなことは何も考へてゐないやうに見える。
今後のビジョンが何も見えない。暗黒だ。
スピリチュアル界(現世のスピリチュアルの好きな人たちの世界)においても、現在何もビジョンが見えない。
大手も含め、いろいろな出版社が参入してきてゐて、まう何でもありの玉石混淆状態だ。
売れれば何でもありの世界だ。
弊社も今まで方向性を提示していろいろな書物(や『スターピープル』)を出してきたが、
今のスピリチュアル界の玉石混淆状態に翻弄されつつある。
「意識の目覚めに役立つものを提供する」といふ大前提に変はりはない。
それを踏まへて今後のビジョンをだう提示していくか。
一筋の(幾筋もあるのか)光を提示していきたい。
人々の意識も変はり、社会もより良いものに変はっていく方向へ。
ノーマインドになると無意識につながるやうな氣がする。
さうなるとテレパシーや直感や情報を得ることができるやうになるのかな。
中村天風さんは、そのやうなことを言ってゐたな。
辻麻里子さんのゼロポイントに意識を合わせて、宇宙図書館情報を取得していたのも、それなのか。
辻氏の場合、ゼロポイントの意識を合わせ過ぎて、心身のバランスを崩して、早くしてあっちの世界に行ってしまったが。
よく自分が考へてゐることを相手が口に出したり、自分の言ったことについて相手もそれを言はうとしてゐたと言はれたりする。
また、久しぶりに見かけたものについて、他の人からもそれについて言はれたり。
人の意識はつながってゐるやうに感じる。
集合意識みたいなものがあって、個々の意識はそこから枝分かれしてゐるのかもしれない。
集合意識につながれば、他の人の意識ともつながるのかもしれない。
テレパシーの原理のその辺にあるのかな。
のことを書かうと思ったが、今日(9日)はだうもツイてゐない日だった。
よくない知らせがたて続けにきた。
悪いことは重なるものだ。
しかし、良いことは重ならない。重ならないどころかめったに良いことは起きない(苦)。
減量に取り組みつつ、不摂生もしてゐるから、頭が朦朧として運を悪くしてゐるのか。
ノンデュアリティでよく言はれる「私はゐない」とは、仏教の「無我」と同じだ。
ノンデュアリティと仏教は同じことを言ってゐる。
ただ、仏教は宗教と化し、形骸化したり、葬式仏教になったりしてゐる。
仏教の本質的なところ、純粋なところが現代のノンデュアリティだ。
仏教の本質的なところと、葬式宗教とを切り離さないといけない。
葬式宗教は霊能者に任せればいい。霊的なことは霊能者に。
悟りのことは、ノンディアリティに。
仏壇に向かって、ノンデュアリティの意識になっても、死者は悟らない。
あるいは、仏壇に向かってお経を唱えるよりも、トニー・パーソンズの本を朗読したほうが、
死者も悟る(成仏する)のかな(笑)。
「私はゐない」「無我」「諸法実相」「あるがまま」「それしかない」
世界を幻想と見て生きていると虚しくなる。
幻想であるとか幻想でないとかの判断をしないで「あるがまま」「それしかない」で対すると
虚しく思ふ必要がなくなる。