覚醒(一瞥:一瞥だけでなく何瞥でもあるが)は、クリシュナムルティの自己認識、グルジェフの自己想起、ラマナ・マハルシの「私は誰か」の認識をすれば起るが、
覚醒してもエゴ(マインド)は抜け落ちない。温存されたままだ。
エゴが抜け落ちるためには、明け渡し(サレンダー)が必要なのかもしれない。
神でも全体なるものでも超越者でも呼称は何でもいいが、さういふものに自分を明け渡す。
自己を放棄する。
ひたすらの明け渡し・・・
それとは別に、不思議に思ふのは、運氣といふのは悪いことは重なり、一つの悪いことがなくなると他の悪いことも消えてゆく。運氣には波がある。
エゴは運氣に振り回される。
超然としてゐれば、それこそ、エゴがなければ、振り回されなくてもすむ。
本山博さんは「超作」と言はれた。