よく人生は映画にたとえられて、人生はスクリーン上の光の動きでしかないみたいなことが言はれる。
根底にある空(くう)、包括者の上で動いてゐるのだ。
では、そのスクリーンを見てゐるものとは誰か? 自分とはそのスクリーンではないのか?
スクリーン(対象)と自分(主体)との二つがあるのか。
その二つは一つなのか。
主体とはなにものか。
なぜ発生したのか。
気づいたら自分がゐた。
そして他者や他物があって、空があって、スクリーンがあって・・・
よく人生は映画にたとえられて、人生はスクリーン上の光の動きでしかないみたいなことが言はれる。
根底にある空(くう)、包括者の上で動いてゐるのだ。
では、そのスクリーンを見てゐるものとは誰か? 自分とはそのスクリーンではないのか?
スクリーン(対象)と自分(主体)との二つがあるのか。
その二つは一つなのか。
主体とはなにものか。
なぜ発生したのか。
気づいたら自分がゐた。
そして他者や他物があって、空があって、スクリーンがあって・・・
>そのスクリーンを見てゐるものとは誰か?
いわゆる観照(者)といわれる存在でしょうか。
つまりアートマン=ブラフマン、個別性のない
全一の存在で、「気づいている」だけで何も
行為を行わない。
「サット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(至福)」
アドヴァイタからの解釈です。