覚的主体、無位の真人、真我

自己知(気づき)の主体(覚的主体)とは、臨済が「無位の真人」と呼んだものであり、一般的には真我と呼ばれてゐるものだ。

覚的主体は、この世界(3次元世界)を超えてゐるがゆえに、時間と空間を超越し、「今ここ」に在りながらも永遠に在る。臨在してゐる。「われ在り(I AM)」の存在だ。

思ひ(思考)に浸る自己(エゴ)に対して気づいてゐとき「自己知」の状態であり、そのとき自我が脱落し、「われ在り(I AM)」が顕はになる。

「われ在り(I AM)」が顕はになるとき、無条件の愛もそこに在る。

一瞥とか覚醒体験とは、自己知の結果でしかない。
自己知(覚的主体)があって、はじめて覚醒体験がある。

われわれは、覚的主体への移行期にある。

覚的主体の比重がどのくらいかで、「臨在力」がはかれる。
逆に「臨在力」で、どのくらい覚的主体が目覚めてゐるのかがわかる。