前回の投稿ともつながるが、ああだかうだと考へると自由でなくなる。
思考(マインド)が、自由を奪ふ。檻の中にゐるやうなもの。
考へないで直感で生きると、自由になる。
心も平静になる。
苦悩(煩悩)と平静さは両立しない。
これが仏教の核心でもある。
『奇跡のコース』の核心でもあるかもしれない。
『奇跡のコース』は内なる平和(平静さ・安らぎ)を課題としてゐる。
苦悩は考ヘることから生まれる。
直感からは生まれない。
直感から生まれるのは平静さだ。
今週末のワークショップは、同じ建物の3箇所の会場で弊社で本を出してゐる著者たちのワークショップがあった(笑)。一つはうちのワークショップで、他の二つは別々の他社主催のものだった。
ワークショップは今、お客様が分散してしまって集客が少なくなってしまってゐる。
毎週毎週、どこかしこでワークショップが開催されていて、関心のある人たちは選択してどれかに参加してゐるのだらう。
この数年、年々どこのワークショップでも参加者の数が減っていると聞いてゐるが、ワークショップの数がこれだけ増へてしまへば、一つあたりのワークショップに対する参加者数は相対的に減ってしまふ。
過当競争だ(苦笑)。
ワークショップに限らず、スピ本も大手出版社もどんどん投入してきてゐて過当競争状態だ。
1冊あたりの売れる本の冊数が減ってゐる(苦)。
圧倒的にすごいワークショップや本でないかぎり、分散化はのがれられない。
何人かの人に言はれたが、弊社の本のカバーは他社に比べて見劣りし、あまる売れるやうなカバーデザインでない、と。
カバーデザインを工夫しないとダメだと。
確かにさうだ。
他社の本は、魅きつけるカバーデザインであり、キャッチコピーであり、いろいろ工夫して売れるやうにしてゐる。
それに比べ、弊社のは見劣りする。内容うんぬんの前に見栄えで購入の差が出る(苦)。
それは反省点だ。
見栄えも栄えるものにしていかなくては。
それはそれとして考慮するとして、
『マジック・プレゼンス』でふんだんに語られてゐる、
「アイ・アム」(われ在り)、「アイ・アム・プレゼンス」(われ臨在す)といふ秘語、悟りの言葉は、旧約聖書で神がモーセに自分は「われはわれたるものなり」(I AM THAT I AM)と言ったと記されてゐる。神は自分は「アイ・アム」(われ在り)だと。
これは覚的主体の認識そのものだ。
悟ったとき、「われ在り」と自覚する。
臨在感がありありとしてゐる。
この世界を超越して、「われ在り」(I AM)といふ感覚があふれる。
まさに神そのもの。神と一つになってゐる。
神が語った「われはわれたるものなり」(I AM THAT I AM)を自覚し、宣言する。
2月に刊行予定のアセンデッド・マスター、サン・ジェルマン(セント・ジャーメイン)の本『マジック・プレゼンス』(1巻目の『明かされた秘密』の2巻目)は、とても興味深い。
チベットのゾクチェンの「虹の身体」、仙道の白日昇天(練神化虛、還虛合道)に通じ、
「アイ・アム・プレゼンス」を生きることによってアセンション(肉体を超えて光の身体、ライトボディになる)が起こるといふ。
「アイ・アム・プレゼンス」とは、真我、覚的主体、非二元意識だ。
「アイ・アム・プレゼンス」を認識すると、何でも可能になるといふ。
チベットも中国も西洋も「光の身体」になるシステムができていたのだ。
インドのクリヤ・ヨガもさういふシステムなのか。ババジは肉体を自由に操る。
日本にも仙人がゐて、昇天していったといふ言い伝へ(記録?)がある。
日本の仙人(アセンデッド・マスター)は、だうやって仙人(アセンデッド・マスター)になったか?
『光と影のやさしいお話』は霊的なお知らせ、導きによって書かれた本だ。それもかなり強烈な。
僕にはそういう能力はないが、
霊能者やチャネラーや直感能力者がいろいろなことを言ってくる。
霊的な示唆、お知らせをどう受けとめるかはこちら側の判断だ。
それをどう受けとめるか。
そのまま受けとめるか、「ちょっと待った」として全部受け入れないか、一部だけ受け入れるか。
霊的なものはある。
霊的なことはこちら側では判断できない。
ある面で賭けなのかな。
信用できるかだうなか。
盲信はごめんだ。
賭けて進んでみて、間違い(失敗)であれば、その言やその人に対しては信用度ゼロになる。
世の中には霊的にエネルギーが強い本があるらしい。
その一つが山田征さんの『光と影のやさしいお話』という本だ。
霊能者が手に取ると、霊的に何かを感じ取るらしい。
内容もとても興味深いが、エネルギー的にもとても興味深い本かもしれない。
感じる能力のある方は是非感じてみてほしい。
桜井章一さんと藤田晋さんの共著『運を支配する』(幻冬社新書)のP86で、桜井章一さんが、
「気分がいいと運がくる」といふ法則を述べてゐる。
覚的主体にあるとき「気分がいい」。故に覚的主体にあるとき「運がくる」。
覚的主体にあるとき、何とも言へない気持ちのよい状態になる。至福とも言へるやうな。
穏やかで心地よい状態になる。
すべてを肯定し、前向きな心持ちになる。それが運をよくしてゆくのだらう。
僕は去年まではネガティブ志向が強かったが、今年は気分のよい状態を多く作ってゆきたい。
そして運をよくしていきたい(笑)。
自己知(気づき)の主体(覚的主体)とは、臨済が「無位の真人」と呼んだものであり、一般的には真我と呼ばれてゐるものだ。
覚的主体は、この世界(3次元世界)を超えてゐるがゆえに、時間と空間を超越し、「今ここ」に在りながらも永遠に在る。臨在してゐる。「われ在り(I AM)」の存在だ。
思ひ(思考)に浸る自己(エゴ)に対して気づいてゐとき「自己知」の状態であり、そのとき自我が脱落し、「われ在り(I AM)」が顕はになる。
「われ在り(I AM)」が顕はになるとき、無条件の愛もそこに在る。
一瞥とか覚醒体験とは、自己知の結果でしかない。
自己知(覚的主体)があって、はじめて覚醒体験がある。
われわれは、覚的主体への移行期にある。
覚的主体の比重がどのくらいかで、「臨在力」がはかれる。
逆に「臨在力」で、どのくらい覚的主体が目覚めてゐるのかがわかる。