指1本、パンパン

よく覚者が、指を1本立てたり、扇子や手でパンパン鳴らして、これが悟りだみたいなことを言ふ(笑)。

それは、それ自体が「そこ」在る。対象でないそれ自体の認識。
自己知(直接知)において、明らかになる。
自己知においては、対象なき自己が明らかになり、同時にそれ(世界・ここのもの)自体がそれ自体として明らかになる。

指が指自体であり、自己知のうちにある。
パンパンが、自己知のうちでそれ自体が鳴る。

うつけものが文化をつくる

言い訳的なタイトルだ(笑)。

足利義政が政治そっちのけで銀閣寺を作り、いろいろな文化的なことにほうけて、それが今日の日本文化の礎を築いた。その礎のもとに文化人や芸術家が輩出した。

ルネッサンスにしてもメヂチ家が金を出して文化が花ひらいた。

本来、政府なり財閥が金を出して、文化が花をひらく。

鎌倉仏教が鎌倉幕府の元で花ひらいたように、現代においてそれに相当するのはニューエイジ思想であり、覚醒(非二元)の生き方だ。政府や財閥がニューエイジをもっと応援すべきなのだ(大笑)。
彼らはそんなことはしない。逆の意味でのうつけものだ。もうからないものには手を出さない。

俺は、お金は全然無いけれど、覚醒文化のためになんとかしたい。
お金があれば足利義政にあやかりたいものだ。
なくてもなんとかしなくてはならないのかもしれないが。

大言壮語を言ってもしょうがないが。

直接知

ほとんど一人の探索であり、誰に対して伝へてゐるわけでもく、わけもわからないことを書いてゐるだけではあるが、、、

対象を持たない知(非二元の知=悟り)は、直接知であり、直接知は自己知以外にはない。
直接知は、世界が世界を照らす知だ。

体験

覚醒「体験」や一瞥「体験」は、悟りではないといふ。
悟りは「体験」ではないと。

体験になった段階で、記憶のひとつになり、本来の自己(真我)ではなくなる。
体験になる一歩前の段階が、悟り?

「それ」ではない

「それ」と対象化して認識した瞬間に、自己と「それ」との二極(二元)が生じる。
「これ」「ここ」と言っても同じ。対象化してゐる。
対象化しない「ここ」。絶対的な「ここ」。どこもかしこも「ここ」。
主観だけしかない認識。すべてが、個人でない自己。世界と自己との同一性。

先日、また別の悟った方にお会ひした。

その方は、「パンパン」といふ音に真実があって、その事実を自覚するのが悟りだと言はれてゐた。
その音を対象として認識するのではない、とのことだった。

対象化しない知といふのはだういふことか。

それを「即」と表現されてゐた。

覚醒しても、覚的世界を対象として認識してしまえば、まだ対象として見てゐる自己が残ってゐることになる。
プレゼンスを認識しても、プレゼンスを対象化しては、まだ自己が残る。
超越者を認識しても、認識してゐる自己がまだある。

対象化しない知。

認識がやむとき、対象もないし自己もない。知もない。

「パン」と氣づいたら「パン」だった・・・
自己もなく。

この方は、悟りを維持することも、戻ることも、深まることもない。大悟も小悟もないと言はれてゐた。

遠い日

今日参加した音楽イベントで、「はるかな尾瀬、遠い日を」の曲が流れていた。

遠い日。

遠い日は、月日はかなり経ってゐるが、ありありとリアルに思いだされる記憶。
そこに当時の人々がリアルに生きてゐる。自分もその当事者で。
しかし、リアルではあるが、もう戻っていくことできず、取り返しのつかない映像。
もうどうすることもできない出来事。みんな生きていたんだ。
もう帰ることができない。

ありがたうございます

「ありがたうございます」は感謝する対象があって成り立つ。
感謝する人と感謝される人(存在)との関係性。
それは二元の世界。
それを包摂するものとして全体性(一体性)(非二元)のスペースがある。
この二元の世界では感謝だが、一体性(ワンネス)の世界ではそれを超えてゐる。
同時存在。
人々に感謝し、先祖に感謝(先祖供養)し、神々に感謝するこの世界と、それを超越する世界と。

ヤン・ケルスショットさん

レナード・ジェイコブソンさんと違って、ヤン・ケルスショットさんはよくしゃべり沈黙の時間もあまりない。
レナード・ジェイコブソンさんは、沈黙のプレゼンス力によって会場を静かな空間にするが、ヤン・ケルスショットさんは沈黙によって会場を静かにはしない。
しかし、ワークショップが終わったあとのプレゼンスの余韻は双方匹敵するものがある。
会場でプレゼンスを表現していないように見えて(言葉で「スペース」のことを常に意識して語ってゐたけれど)、会場から去ったあとにプレゼンス(スペース)が現れる。
不思議。

ニシキトベの知名度をアップさせたい!

先月、『ニシキトベの復活』を出版した。

まだ、ニシキトベという存在はそんなに知られてゐない。
もっとみんなに知ってもらひたい。

ナグサトベも近くにゐた和歌山・熊野の女酋長で、ニシキトベも熊野の女酋長だ。
どちらも神武天皇の東征で殺された(?)。
土着の人たちの長。奈良のクモ族もさう。

時代は古墳時代の前くらい。弥生なのか縄文なのか。
著者の佐藤シューちひろさんは、神武即位の西暦紀元前660年説をとって縄文の女性酋長と見ている。考古学的には、神武即位は紀元後300年くらい(古墳時代のはじまり)。そうすると弥生の女性酋長となる。

神武ななぜ東征して、土着の人たちを殺して、王位についたのか。
それから今まで王位(天皇)は続いてゐるが。

ニシキトベを復活させることは、元の日本人の魂を復活させることだ。

『ウエティコ 神の目を見よ』にも通じるものがある。

著者の佐藤シューちひろさんは、熊野でニシキトベの彫塑を作っていく過程で、ニシキトベと対話し、ニシキトベの歌を聴き、みずからの内にある本来のものを解放していった。

ニシキトベをみんなに知ってもらいたい!