第九=浄化(カタルシス)の儀式

ベートーヴェンの交響曲第9番合唱付は、年末に日本中で演奏される。

第九(だいく)を聴くと、聴いてゐると、浄化(カタルシス)の儀式に立ち会ってゐるやうな感覚になる。
今まで溜まってゐたものが、浄められていく感じがする。カタルシスが起こる。

日本人は、第九で一年間溜めてきたものを浄化するのかもしれない。

浄められるだけでなく、高められる。何か崇高なものへとつながる。
さうなんだ、かうでなければならないんだ、人間は!といふ思ひにかられる。

ベートーヴェンは、ほとんど耳が聞こえない状態でこの曲を作った。
かなり感情的な錯綜があったと思ふが、「苦悩から歓喜へ」といふテーマが、
見事に表現されてゐる。静かな想ひ(諦観の念)とたぎる感情の噴出と。

これを客観芸術といっていいのかだうかわからないが、数学的な正確さで、
見事に浄化を成し遂げてゐるやうに思ふ。

クリスマスっぽくない

なにか今年は、自分自身の感じも、他の人の感想もクリスマスっぽくない感じだ。

なぜなのかな。

何かが変はったやうな。

日本の神様ブームで、キリスト教的な要素は特にいらなくなったからか。

経済的な事情か、社会的な事情か。

大雑把にいへば、人々の意識が変はったのかもしれない。

「わくわく」雑考2

このブログは、たいがい酔ってゐるときしか書かないが(苦)、今回も適当に書いてみよう。

「わくわく」はアドレナリンを誘発し、交感神経を活発にするけれど、現代社会はストレスだらけで、もうはち切れんばかりだ。
でも発散できず、抑圧して生きてゐる。鬱々とした状態だ。
 太古であれば、叫び声を上げ、土人の踊りのやうなことをして、アドレナリンを発散してきたが、今は、そして日本人は叫び声をあげられない。他人の目を気にしてしまふ。

 僕は家のなかで物にあたり、壊したりしてゐるが、それでも満たされない。上下の階の部屋に迷惑を掛けてゐるやうだが(苦)。

わくわく感が足りないのか。浄化(カタルシス)ができてゐないのか。

現代社会において、社会の中に、感情をストレスを解放するシステム?が組み込まれてゐない。
さういふ意味では、太古のはうがよっぽど健全だ。

たぶん、太古のはうが自分と自然の中心につながってゐたのだと思ふ。

われわれはみな土人ではないか。
そして宇宙を駆け巡る存在でもある。

宮澤賢治に乾杯!

「わくわく」について

弊社から『地球人革命』を出させていただいてゐる、鎌倉の超人気の医師でありスーパーカイロプラクターの松久正先生は、最近のブログで「「わくわく」生きるんじゃない「ぷあぷあ」生きるんだ」といふことを書かれてゐます。面白い考えだなぁと思ひます。
松久先生は、松果体が活性化されてゐるやうで、宇宙情報をキャッチしてゐるやうです。
来年は「ぷあぷあ」が流行語になるかもしれません。

松久先生のブログを読んでゐて、僕なりの意見といふのが浮かびました。

「わくわく」というのは、バシャールが最初に言って、それが日本人に受けて広まった概念です。
ヴォイスさんは、いまだにバシャール本を出していて、バシャール人気は続いてゐるやうです(笑)。

「わくわく(exciting)」といふのは、アドレナリンを分泌し、交感神経を活動させることと言へます。
それだけであれば、バランスを崩すと思ひます。「ゆったり」「平静」の副交感神経の活動も必要だと思ひます。
「わくわく生きればいい」といふのは片手落ち。時に「わくわく」、時に「平静」に。

バランスがとれてゐないだけでなく、「わくわく」にはある種の軽さがあります。軽薄な感じの軽さ。なんなのだらうと思ひます。

タオ(道)には、「わくわく」といふものがないやうに思ひます。無為自然。泰然と流れる何か。
愛にも「わくわく」はないか。

日本酒ルネッサンス、あるひは日本の文化復興

立て続けにこのブログを書いてゐるが(苦笑)、
まあ、何でもよい。

日本酒もひと頃(十年か何十年か前)は、まずかったが、今は美味しい日本酒が多くなった。
酒蔵が結構がんばってゐるやうだ。

日本の伝統がすたれつつあるとテレビとかでずっと言はれてきてゐたが、
でも、しっかり伝統を受け継ぎ、今の時代にもあったものを作る人々がゐる。

その人たちの顔を見ると、みんないい顔をしてゐる。

何か、どこかで、救はれてゐるやうな気がする。

本当は今、伝統は受け継がれ、息づき、現代にあったものを提供し、われわれに語りかけてゐるのだ。

一瞥から大悟へ

全然タイトルと関係がないけれど、忘年会をしても忘年会といふ気分がしない。クリスマスに近づいてゐるけれど、全然クリスマスっぽくない。何かが変はったか? 何かが変?

今度の15日に非二元(ノンデュアリティ)の大御所のトニー・パーソンズの『オープン・シークレット』が発売になる。

トニー・パーソンズは、21歳のときに公園で一瞥体験をし、その後、ヨガやOSHOラジニーシのところに行ったり、いろいろして30年後に、解放(大悟)に至った。
大燈国師は、一瞥後、京都の橋の下で乞食と共に20年過ごして、一人前になった。

一瞥しただけでは十分ではない。
悟後の修行をして、本物になる。

日本の覚醒者(一瞥者?)は、どうなのかな?

昔の禅師みたいでもないし、西洋の覚者といふ感じでもないし、中途半端?

覚醒(一瞥やトランス)と生活との一致をだうするか。。。

星へ

よくライトワーカー(スターピープル)は、夜空を眺めて「星に帰りたい」といふ。
僕にはさういふ氣持ちはない。
さういふ意味では、僕はスターピープルではない。
実家や故郷にあまりいい記憶やイメージがないから、故郷へ帰りたい意識もないのかもしれない。
帰ってだうするの?といふ気持ち。
むしろ夜空は、宇宙は、冒険の、開拓のフィールドだ。冒険心がくすぐられる。
『スタートレック』では冒頭で「宇宙、それは最後のフロンティア」といふフレーズが流れるが、
そのやうなものだ。
それに『スターウォーズ』のやうな宇宙での冒険活劇が好きだ。
いろいろな宇宙人がゐて、酒場で飲みあって、いろいろな星があって、いろいろな生物がゐて。